「多文化共生」というまやかし-フランス統一選で、国民戦線躍進 
                                  (2014/4/30~2017/7/24、随時書き加えています)
                                  (イギリスのEU離脱については、ブログのページへ)
                                 (ブレイビク「2083ー欧州独立宣言」について、ブログのページ
)
目次
1  そもそも多文化共生など不可能
2  国民戦線の主張
3  激化する民族紛争
4  引き返しつつある欧州社会
5  なぜ「多文化共生」というまやかしが日本でもてはやされるのか
6  その他の問題点

      A.お互い譲り合って共存する、というのは可能か?
      B.なぜ一部の人達は、進歩や理想社会を追い求めるのか?
      C.有能な移民なら認めていいのか? 
      D.そもそも「多文化共生」という発想はどこから来たのか?

       E.その他の細々とした問題点
7  結論(のようなもの)
※ 欧州議会選挙の結果について(6/9追記)


    ※ 初めに ※

フランスで統一地方選挙が行われ(3月23日、30日)、与党社会党が敗北、国民運動(UMP)を中心とする右派が46%の得票率で勝利した。また、ルペン党首率いる「極右」の国民戦線(FN)が7%の得票率で、前回の1%以下から躍進した。→日経新聞

ちなみに、このFNは日本のメディアはほとんど「極右」と表現しているが(笑)、全然そうじゃないと思う。主張自体は、日本の現状に近い、割と普通の内容だと思うのだが。wiki参照

与党敗北は経済状況への不満だろうけど、FNの躍進はそれとは関係なく、移民などのリベラル政策に反発したものではないかと思う。経済だけなら、UMPの方に入れれば良いわけだし。

移民問題が欧州で深刻化しているのはよく知られている。民族ごとに固まって住み元の住民と融和しない、働かずに生活保護を要求する、治安が悪化し暴動が起きる、とにかく良いことなどないってのが分かってきた。地元が他文化に寛容であったとしても、移って来た民族がそうとは限らない。現行のイスラム国家などを見れば分かることだが。逆はないのだ。移民が増えると軋轢が増えるだけで、社会にとってのメリットなどない。単に旗振り役のリベラル連中の自己満足にしかならない。

1  そもそも多文化共生など不可能

例えば、「道ばたに置いてあるものは持って帰っても良い」という文化の民族(A)と、「道ばたに置いてあるからといって勝手に持ち帰ってはいけない」という文化の民族(B)が共存可能か?
勿論不可能である。そのような二つの文化を持つ民族が混在していれば、社会はAの文化に収斂されるしかない。引っ越しや掃除でうっかり外に置くことはできなくなる。道の駅などにある無人販売所も継続不可能となるだろう。日本は基本的にBの文化であって、無人販売所などで人件費無しで、当地の産品を安く味わう事ができる。これはそれなりに良い慣習である。勿論それでも盗られる場合はあるだろうが、それが希なケースならば維持できる。これが、Aの文化の集団が2割、3割になればもはや不可能となるだろう。Bの文化は消え去るしかない。

こんな例はいくらでもあるだろう。列に並ぶ文化と並ばない文化。日本国内では今は圧倒的に並ぶ人が多いから問題はないが、比率が近づいたら混乱するだろう。最後は並ぶ文化はなくなる。CDやDVDを正規に買うかコピー品にするか。コピー品を買うのが当たり前になれば、音楽芸術は死ぬ。チップを渡すか渡さないか。日本の喫茶店やレストランで、ご苦労さんとか言って、100円か200円渡したら相手はキレるかもしれない(笑)。出されたものを全部食べるか残すか。中国では残すのが礼儀らしい。十分食べたという意思表示のため。これをバイキングや食べ放題でやられたら、料金設定も変わってくるだろう(笑)。実際は、残すどころか袋に詰めて持ち帰るらしいが(笑)。そんなはしたない事はしない、という前提で日本社会は運営されている。それを他文化の人間に要求するのは無理な話。

(追記2016/11/10)つい先日のニュースだが、長野県諏訪市の公園の池から、鯉が大量に捕獲されていなくなったらしい。→ 魚拓。誰がやったのか知らないが(笑)、外国人だろうなあ。日本人がやるとは思えない。そう言えば、かつてアグネス・チャンが、日本の公園に鳩がいるのを見て、なぜ誰も取らないんだろうと不思議がってたらしい(笑)。大した事件とは言えないかもしれないが、日本の日常の風景が変わってしまうのだ。そのうち、温泉猿も、奈良の鹿も食われてしまうだろう。(追記終わり)

(追記2017/7/24)

一週間ほどまえのニュースだが、ベトナム人が無人販売所からスイカを盗んだ、というニュースがあった。→ サイト

>碧南署によると、数カ月前から販売所の野菜などが盗まれる被害があり、男性と署員が見張っていた。16日に同容疑者ら3人が現れ、1人が代金を箱に入れるそぶりをし、スイカを持ち去ったという。同署が他の被害についても関連を調べる。

まあ、こうなるのは当たり前。そういう習慣がなければそうするだろう。この人達が仮に日本の習慣になじんだとしても、次に来るベトナム人は同じ事をするだろう。人間は人間社会によって育てられて人間になる。文化の違いは遺伝子の次に重い。これを無視するのが馬鹿げている。こういった文化の違いを無視して存在しないかのように考え、多文化が共生できるなんてただの空論である。

こちらにもまとめてあるが → サイト
(追記終わり)
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要するに、他文化を理解して済む話ではなく、行動基準が違うということが問題になる。異文化を理解すれば良いという話ではない。宗教や思想、政治信条が違うだけなら共存できて当たり前。日本人の中にも色んな宗教の信者がいて、色んな政治的党派の人がいる。問題なく共存できている。趣味や衣装も極端なものでなければ問題ない。そもそも、共生するのに相互理解など必要はない。例えば、私は仏教の各宗派の教義の違いなんかほとんど知らない。それで何の問題もない。政党の違いとか趣味とか華道や武道の流派の違いもどうでもいい話だ。隣人が何を考え何をしているかも理解の必要なんてない。たまに外であった時に会釈する程度で十分。行動様式が合ってればいいのだ。なのになぜ、この手の人達は「理解」を強調するのか。理由を考えると、

1.理解すれば共生できると安易に考えてるから。
2.理解せよ → 許容せよ → 同居せよ → 固有のものを破壊せよ との狙いがあるから
3.自分には理解能力があると誇示したいから(笑)


主導者の本来の狙いは2.なのだろう(後述)。現にフランスなどではそういう状況に入りつつある。公の場では宗教色を出してはいけない、というフランスの方針にあえて反して、路上を占拠して礼拝しているらしい。あれはわざとやってるとか。こんなものは「理解」のしようがない。現地の本来の文化が否定されそうな状況だ。一般人は3.だろう(笑)。1.はただの理由付け。

そもそも「理解が必要だ」、と言う時点ですでに欺瞞が入り込んでいる。通常、私たちはすれ違う人の殆どについて知らないし、理解もしていない。しかし共存共生ができている。そこを理解が必要だというのは、その時点で既に通常のあり方ではない、特殊モードに入っているのだ。綺麗事の言葉の裏で。なぜ一々周囲の人を理解する必要があるのか。誰もが仕事があり、生活に追われ、趣味や遊びで頭が一杯だ。他の人を気にする余裕などない。トラブルなく過ごせればいいい、というレベルで行動している。周囲に身体障害者などがいれば、見ればわかるし、どう対応すればいいかはわかる。しかし、他の国の民族の風俗習慣など気にかける暇なんかないし、そもそも知らない。姿を見たって分からない。世界には何百何千という民族がいる。それらの文化、生活様式を理解せよというのか。移住する側が相手先の文化に合わせればいい話だし、それが唯一の解決策である。受け入れ側が世界の多民族の文化生活習慣を理解する事など、事実上不可能である。

この種の「他人に何かを要求する」態度、これがこの手の連中の根本的な問題である。それは共産主義者から人権屋、多文化共生論者、脱原発、米軍基地反対運動など、この手の連中の根本にある態度だ。人や社会に対して、自分たちの信じる何らかの理念に従う事を要求する。多分、権力欲の一種だろうと思う。それがただの権力欲ならまだ良いのだが、この手の集団は、自分らが「正しい」、「正義の側にいる」、と心の底から信じている。いわゆる「市民団体」なんかが典型だが、自分らの主張の貫徹ためなら何をしてもいいと思ってる。市庁舎を占拠したり、公共の敷地にテントを張ったり、出版表現の自由を妨害したり。まあ、一種の宗教だが。だから、共産国など、そういった集団が実際の権力を握ったら平気で民衆を虐殺する。日本共産党などのように政権を取ってなくても、身内への殺戮や(宮本顕治の査問からの殺害など)、民衆へのテロを行う(戦後続発した)。こういった「病気」にかかった連中に対しては、治安維持法の復活など、厳しい監視が必要だ(余談ではあるが、後半でこの関係について記述)。


またこれは実態として「理解」の問題ですらない。問題は生活習慣や行動が他とぶつかるということ、それも集団で、という事なのだ。それらは、思想や宗教に由来していることもあるし、していないこともある。多くの原因は歴史的な経緯やその地の風土にあるだろう。

例えば日本人は綺麗好きでよく手を洗ったり風呂に入るとか言われるが、それは「綺麗好きだから」そうなったのではなくて、「真水が豊富に使える環境だったから」綺麗好きになったというのが正しいだろう。中央アジア辺りに移住させられたら、そういった習慣はなくなるだろう。そんな余分な水はないのだから。寿司や刺身なんて料理も、水で常に食環境を綺麗に保てるという事が前提だ。トイレの後は手を洗う、なんて行動も環境に制約される。イスラム教徒が豚肉食を禁じ、酒を禁止してるのも、砂漠という特殊な状況下で生まれたからだろう。砂漠では煮炊きに必要な草木は手にはいらないから豚肉を十分に加熱できない。寄生虫の危険に晒される。酒も夜の気温低下の厳しい環境では危険なのだろう。風土が文化を作り、生活習慣を生み、異なる行動基準を生む。そしてそれが軋轢となる。もし多文化共生論者が、思想や宗教や多文化への「理解」の問題のみを言ってるとしたら、それは誤魔化しである。列に割り込む人間を見て、君の国ではそうなんだから、割り込んでも良いんですよ、とでも言うつもりか。

新たに来た側が当地の文化を理解し、行動基準を現地に合わせなければ軋轢が起こるだけ、あるいは受け入れた側の文化の敗北で終る。通常、移民現象では、民度や教育の低い側から高い側へ流れる。低い側がそんな他文化への理解をもつはずはないし、そもそもそれをやったら多文化共生にならない(笑)。今世界各地で起きている軋轢も基本はこんな形だろう。多文化共生が可能だと思ってる人は、外来者は現地の慣習に合わせてくれると無邪気に信じてるのだろう。思想や宗教は異なっていても、生活はその社会のやり方に合わせてくれると。自分達が外国に行ったらそうする。だから、外来者もそうするだろうと。しかし、そうではない。そのような考え自体が、一定の文化のもたらすものだ。そうではない例は世界中また日本各地で起きている。
(2015/9/6追記)
最近、中東・北アフリカからの難民が欧州に殺到して大変な騒ぎになっている。欧州各地で混乱が起こり、難民への襲撃事件も頻発している。
その中で多文化共生の側面を見てみると、

移民反対派にものを投げ攻撃する難民達 → youtube
赤十字からの支援物資を、十字が書いてあるからといって拒否するムスリム → youtube
南イタリアの街を破壊するアフリカ人難民 → youtube

共生なんてレベルじゃない(笑)。難民の側が多数派になったらどうなるのか。欧州が中東やアフリカになるだけの話(笑)。
こんなものに意味は無い。受け入れ拒否しかないだろう。
(追記終わり)


そもそも「多文化共生」という言葉自体が矛盾を含んでいる。文化というのは、ある地域の、風土や歴史、そに住む民族、言語などの特殊性によって、結果として産み出されたものであって、一つの地域から一つの文化が産まれる。複数の文化が産み出されるはずはなく、上記のような理由もあって、複数の文化が共存しながら成長するはずはない。どこにそんな例があるのだろうか(時代が変われば別の文化は可能だろうが)。よく昔のエルサレムには、異なる宗教の民族が共存していたとか言われるが、実際は居住区をはっきり分けて住んでいたので、共生というのとは違う。たまたま、幾つかの宗教の聖地だったからそういう状況になっただけ。これは地方の村落も同じ。あの有名な虐殺事件が起きたデイルヤシーン村はアラブ人の村(この事件の背景など詳細については、ブログ参照).。そして、今、正に同じ状況が欧州に出来上がりつつある。聖地でもなんでもない普通の街区にも拘わらず。フランスの中に別の国・社会が出来つつあるわけで、一体その事によるメリットは何なのか。旧来のフランス人には何のメリットもないのは明かだろう。

私たちがフランスに行ったとして、それはフランスの文化や歴史に触れる為であって、そこにモスクが並んでてムスリムが礼拝していても困るのだ(笑)。勿論仏教寺院や神社があって僧侶や神官が行進していても困る。シャンゼリゼに鳥居が立ってたら困惑するだけ。そんなごちゃ混ぜの「多文化共生」など見たくもない。お互いに異なる文化の世界に住んでるからこそ、独自文化は育つのだ。これが世界中多文化のごちゃ混ぜになったら、もはや文化の意味などなくなるのではないか。そんな世界に何か意味があるのか。そもそも何故、混住する必要があるのか。元いた所にいればいいではないか。

フランスでは最近、ラーメンや寿司などの日本食が人気らしいが、それは多文化共生とは勿論異なる。日本人が大挙押し寄せて権利を主張しているわけではないし、日本文化の総体を押しつけてるわけでもない。日本の文化のある要素が、当のフランス人の側に受け入れられている、という現象なのだ。日本人がカレーや中華料理を受け入れたが、カースト制度や纏足は受け入れなかったように。各民族がそれぞれが独自の異なる文化を発展させて、それらの要素の幾つかが他民族に受け入れられればいい。それが全体の為にもなるだろうし、そうやって文化は発展してきた。無理矢理混住して、文化の総体を地域に押しつけるのとは違う。フランスでは、例えば公の場では宗教色を出さないということで、ムスリムの女性がかぶるブルカは認められていないが、ムスリム側はどうしても被ろうとして問題になっている。フランス社会へのイスラム文化の押しつけである。

新大陸の国家なぞ、その極みだ。表面的には、アングロサクソン系にアイルランド系だのイタリア系だのが共存してるように見えるが、そこに原住民の姿はない。どこかの保護区に押し込められてるだけ。完全に否定され抹殺されてしまった。要は、欧州系白人文化の侵略でしかない。最近はそこにアジア系移民が増えて、元の移民の欧州系や黒人系と軋轢を生じているらしいが(笑)。ま、欧州のリベラリズムが行く所までいって、中東系や黒人系の移民に占領されて白人が保護区に押し込められるのも面白いかもしれないけどね、「猿の惑星」みたいに。北欧など実際に中東からの移民が増えて、酷い状態だと聞く。建前としての移民容認論が支配しているために、異論も許されないらしい。スウェーデンではイラクの過激派に乗っ取られたような地区もあるとか。ノルウエーでは遂に鬱憤を爆発させ銃と爆弾で77人をも殺害したブレイビクによる事件も起きた。

要するに、他文化への「理解」だけでは済まないのだ。文化には「行動」が伴い、その行動がぶつかってしまう。どんなに物わかりの良い人であろうと、自分の行動基準と相反する集団の行動に限りなく譲歩する事は出来ない。それが出来たら、その人はその文化に属してるとは言えない、所属不明の人間ということになる。多文化共生の前提が崩れてしまう。日本人が、痰をはきまくり列に並ばない中国人と共存出来るのか。CDやDVDを当たり前のようにコピーし販売するのを認めるのか。中国でも違法なのだが平気でやっている。日本でも何万もの業者がやり始めたら取り締まりもできないだろう(この事は単にビジネスの問題ではなく、芸術芸能の分野全体に影響は及ぶ。中国にその分野でまともなものが無いのを見れば分かること)。中国に滞在する日本人はそういった事に我慢するしかないだろうが、国内でそれをやられたら耐えられない。そんな当たり前のレベルで考えないといけない。この世に住んでいるのは聖人君子ばかりではないし、そう要求する事はできない。そのような理想的な人間像を前提として考えて失敗したのが共産主義である。カンボジアでは、リーダー達の考えに反してると思われた国民が、3分の1も殺されてしまった。その事だけで、その思想自体が間違ってる、と言えるレベルなのだが。

それでは、多文化共生論者はこの文化の衝突に対してどういう対応をするのか。その答えは明かだ。日本人側の、他文化への無理解や偏見のせいにする。これは確実である。むしろ、大喜びでそう反応するだろう。なぜなら、この手の連中は、日本人を批判したくてしょうがないから。自分は他の日本人とは違う、と言いたいから。むしろそれが本来の目的なのかもしれないが。今現在(4/12)、四国のお遍路道でおきている問題など、そのまんまだ(笑、笑っちゃいけないが)。この騒動の元になった、韓国人による違法なシール貼り付け行為は不問に付され、報道すらされない。そしてそれへ反応した日本人の行為だけが、マスコミの批判の対象になっている。

また、去年北海道恵庭市で、これに直接絡む事件が起きた。ニュージーランドのマオリ族の女性が、顔の入れ墨を理由に温泉入浴を拒否された事件である。→魚拓
拒否された事に対して、その女性は「日本人は自分たちと異なる伝統に思いやりを持ってほしい」と発言したらしい。まあ、女性の立場としてはそういう発言をする気持ちはわからないではないが、マスコミ側はいつもの通り、温泉側・日本の側を批判している。世界には何百何千という民族があり、それぞれに異なる文化・習俗で生活している。ある文化では当たり前でも、他の文化では受け入れられないものがあるのは当然の常識だろう。それら異なる文化を全て受け入れたら、その社会の秩序は崩壊してしまう。それらを認めたら、日本社会の側の文化の存続はどうやって担保されるのか。日本文化の否定ではないか。ヤクザのような反社会的なものではないと言うが、そうすると、ヤクザのようなものかどうかを施設側が判断しなければならない。相手の回答が本当かどうか調べようはない。ヤクザが嘘をついて悪用するかもしれない(笑)。また、そういった習俗が本当にあるのかどうか、施設側は全世界についての正確な知識が必要となる。無理な話だし、施設側はわかっても他の客は知りようがない。日本人の側にだけ一方的に負担をかける事になる.。しかもこのケースの場合、顔だから気づかなかったとの言い訳もできないし、他の客から隠すこともできない。断る以外の対応はとれないだろう。

まあ、この件については、付き添いの日本人は断られるのをわかっていてあえてやったらしく、背景には別の事情がありそうだが。いつもの日本のサヨクの手(笑)。国内でちょっとした事件を起こして、外国で、日本はこんなに酷いと大げさに宣伝して共感・支持のコメントを貰い、それを日本にフィードバックして、「白人様もこんなにお怒りだ」てな感じで自分たちの立場を誇示する。いつもの手だろうとは思う。
(以上2段落、5/18追記)

これらが自分に関係のない、別世界で起きた騒動だと思わない方がいい。そのうち、自分が何気なく、悪意もなくやった行為が、他文化否定だ、差別だと非難される事が起きるだろう。まさにそういう普通の感覚を破壊するのも目的なのだから。そして自らの正当性の主張など一切無視された報道がなされるだろう。実際、マスコミはそうやって松岡大臣を自殺に追い込み、不二家の店舗を閉鎖に追い込んだ。ほとん犯罪性が無かったにも拘わらず。この手を今も使ってるし、今後も使うだろう。


また、別の観点を言えば、多文化共生論者の論理に齟齬があるのではないだろうか。それに気付いていないのでは。こういった論者にとっては、まずなんらかの確固とした文化が存在するのが大前提としてあるのだろうと思う。そしてそれらが、一つの社会の中に他と共存するという図式なのだろう。しかし、その社会で産まれて来る子供にとってはどうなのか。しっかり文化が受け継がれるのか。それは不可能だと思うのだが。いくつもの文化が混在している中で成長する子供が、親の文化を受け継ぐ事が可能なのか。両親が別の文化に属している場合はどうなのか。そもそも、文化というのは親からのみ受け継がれるものではない。隣人や地域社会、共同体、国家などからの一定の強制、視線、制度などによって身についていくものだ。社会が多文化であれば、その行く末はどうなるのか。そういった子供が成長してできた社会では、もはや「多文化」を支える個別文化自体が存在しなくなるのではないか。まあ、文化の破壊が目的だと言われればそれまでだが。

まるで、戦後流行った「カナモジ運動」を思わせる。彼らは、カナだけで意思の疎通や言語表現が可能だと言ったわけだが、しかし、そう主張した人達は漢字の知識を持っていたのだ。それがあるから、似たような言葉や概念をも区別出来た。しかし、漢字の無い社会に育った子供にそのような区別が出来るのか。「補償」、「保証」、「保障」を区別出来るのか。同じ言葉にしか聞こえないのではないか。凄まじく語彙が減ってしまうだろう。弥生時代や飛鳥時代ならそれでも生きていくのに問題はないのかもしれないが、現代では無理な話だ。


2  国民戦線の主張

wikiから引用すると、

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1.移民の制限。ただし、フランスの文化を尊重、保護する移民は拒まない。
2.たとえフランス国籍を持つ移民や移民二世・三世でも、犯罪を行った場合は出身国へ強制送還させる。
3.伝統的な生活様式を保護する。特に農民を尊重する。
4.フランス国内のモスク建設の停止。
5.麻薬の密売人や、小児性愛などの性犯罪者、母親による児童虐待、殺人者、テロリストを特に対象として、死刑を復活させる。
6.公務員の削減。
7.減税。
8.極左に操られているような団体に対する補助金の廃止。
9.放任主義を減らし、道徳の復権をはかる。
10.犯罪者や移民には寛容ゼロ (tolérance zéro) で臨む。
11.同性カップルもパートナーシップを結べる民事連帯契約法の廃止。
12.国籍に関してはいわゆる血統主義を採用する。


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このうち、日本でも推奨、あるいは実際に行われているのは、大ざっぱではあるが、1,3,5,6,7,9,10,11,12だろうか。2、4は恐らく日本では無理、8はあらまほしいが(笑)。

だから、決して極右ではないだろう。1,3,5などは、日本でももっと強調してもいい事柄ではないだろうか。

1の自国文化の尊重の要求は最低限必要だろう。尊重しない人達など、そもそも来て貰う必要などないのだから。せめて小学生程度の日本文化や歴史の知識は必須にすべきだと思う。百人一首や、芭蕉、古事記、徒然草の簡単な知識などはテストでもしてチェックすべきだと思う。サヨクは絶対に反対するだろうが。勿論、日の丸・君が代へのちゃんとした対応も必須だろう。サヨクは発狂するだろうけど。移民国家アメリカだって、国への忠誠を誓わせるんだし、日本のような伝統的国家では当然の事。ゴミ捨ての仕方や道を歩く時のマナーもちゃんと教えた方がいい。無神経に過ぎる。

また日本では、5の児童虐待への罪が軽すぎる。散々虐めて逃げることの出来ない恐怖を与えておいて、せいぜい懲役7年とか酷すぎる。ドストエフスキーが、「カラマーゾフの兄弟」だったかで、たとえ神の国が実現したとしても、虐待された子供の恐怖をあがなう事はできない、といって糾弾した犯罪だ。逃げ場のない救いようのない恐怖に対する罪としてあり得ない軽さである。犯罪の中でも最悪級だと思うのだが。

法曹関係者は、法律の条文の暗記ばかりやってて、想像力というものが枯渇しているのではないか。名古屋の弁護士会の会長だったか、ずっと死刑反対とか罰則の軽減を主張してきてた人が、自分の妻を殺された途端に、反対の主張を始めたのを見ても、そうとしか思えない。自分の身に降りかかるまで分からなかったらしい。過ちを改むるに憚る事なかれ、とはいうものの、一体それまでの主張はなんだったのか。そういった被害者を見たことがなかったのか(専門によっても違うとは思うが)。移民容認のリベラル政策にしても、結果や現状についての想像力がなさ過ぎる。


3  激化する民族紛争

世界中で民族間の軋轢は増すばかりである。特にソ連の崩壊後それが激しくなっている。ソ連は15ヶ国に分かれたが、さらにその一つのロシアでもチェチェン問題が起こり、劇場や学校の占拠事件で、合計500名もの死亡者が出ている。
旧ユーゴスラビアは激しい内戦の後、6ヶ国に別れた(コソボを入れると7つ)。

この国は、一つの国家、二つの文字、三つの宗教、四つの言語、五つの民族、六つの共和国と言われた複雑な国で、共産政権の厳しい支配の元にあったのが、政権が壊れた途端に激しい内戦に突入した(この事自体が多文化共生の不可能を示している。何十年一緒に住んでもダメなものはダメなのだ。今は紛争が無くなっているわけで、分かれて住むほうがむしろ平和になる。また共産主義者と多文化共生論者は方向性が似ている、という事も重要な点)。元々は民族としてはスラブ民族(南スラブ人と西スラブ人の混合だったとか)であったのだが、各種の文明の境界に位置した為に、お互い争う立場となった。カトリックとギリシャ正教の境界線が内部を通り、さらにその上にイスラム教(オスマントルコ)がかぶさった。ラテン文字とキリル文字の使用の境界にも位置した。歴史を見ると、周りには中途半端に強力な国があって(ブルガリア、ハンガリー、東ローマ、バイエルン、ベネチアなど)、王が変わるたびに国境線が変わっている。中世のセルビア王国では、王の交替は、その実の息子による親殺しによってるケースが多く、悲惨極まりない。

(2015/9/25追記)
難民めぐり対立再燃=物流停止の「制裁」応酬―セルビアとクロアチア → 魚拓   →youtube
>ハンガリーが15日に対セルビア国境を封鎖して以降、セルビアに着いた難民らはクロアチアに流入。これまで4万4000人以上が殺到した。 クロアチア政府は「もはや限界」として、両国間の検問所の大半を閉鎖。それでも難民の流れは止まらず、21日には協力に応じないセルビアからの貨物輸送車の入国を禁じる「制裁」に出た。
>だが、セルビアは難民が自らの意思でクロアチアに向かっており、阻止する立場にないと主張している。ブチッチ首相はクロアチアの物流停止を「経済的攻撃だ」と非難。セルビアもクロアチアからの貨物車の入国停止に踏み切った。

独立して紛争が終わっていたはずの旧ユーゴの二国の間で、中東難民のドイツへの通過を巡って、対立が再燃したらしい。なんともはや。両国に関係のない事案でまた対立する事になるとは同情を禁じ得ない。メルケルが人道的な発言をしたばかりに、こんな混乱を招いてる。
地獄への道は善意で舗装されている、というのはこういうのを言うのか。
(追記終わり)

今現在の進行形である、ウクライナ・クリミア問題は緊張が更に高まり、これからどう転ぶか分からない。クリミアはロシアに所属しようとしているが、その中にも少数民族であるタタール人の自治運動がある。イギリスやスペインでさえ、分離独立の運動が起きている。中国国内での小数民族弾圧や、政府への抵抗は言わずもがな。アフリカ内部での民族間の殺し合いはずっと前からだし、中東でのユダヤ民族とイスラムの対立、あるいはイスラム内部での宗派の対立もかなりの過去に遡る。このイスラム内部での争いは、毎日のように数十人単位の死者をだしていて、昔より酷いのではなかろうか。

これらの紛争の殆どが国内での民族間に起きたものである。中東戦争など、国家間のものもあるが大概の民族間紛争は国内でおきる。アフリカで起きてるのは典型的。かつての、コンゴ、ルワンダ、ソマリア、最近のスーダン。ヨーロッパを含めて国家間での民族紛争は滅多にない。経済や領土に絡むのは起こりうるが。要は多文化、多民族、多宗教が同居している事が争いの元なのだ。分かれて住めばある程度は収まる。多文化共生論者は世界を争いの渦に巻き込みたいのか。


また、各国内で、特定集団による排外的なテロが増えている。ドイツのネオナチは、この10年ほどで、外国人100名ほどを殺害したらしい。ロシアにもネオナチがいて外国人襲撃(とりわけアジア人対象)をやっている。オーストラリアやフィリピンでは、韓国人やインド人を名指しにした襲撃と殺害が起きている。ベルギーでは、つい今日(5/26)、ユダヤ博物館へのテロがあって、ユダヤ人4人が殺された。

一方日本では、Japanese only という垂れ幕を掲げただけで、差別だなんだと大騒ぎである(笑)。差別というのは、社会的に現れた実際のシステムや行為を言うのであって、思想や表現のレベルのものは差別とは言わない。ところが日本だと、「差別に繋がる」という理由で大騒ぎをする。そんなものまで規制されたら、憲法で保障された思想表現の自由はどうなるのか。どこかの民族や国家を嫌いだというのは、差別でもなんでもなく、本人の思想信条の問題である。

この「~に繋がる」という曖昧な言葉は乱用されてて、なんでも、戦前回帰だ、徴兵だ、全体主義だ、ナチスだ(笑)と、気に入らないものは野放図にマイナスイメージのものに結びつけられ、批判の対象にされていっている。今の世界はそれどころではないってのに。しかも、20世紀最大最悪の殺害を行った共産主義者には決して結びつけられないし、彼らにはマイナスイメージも持たされていない(笑)。共産主義者が公然と現代にいられるのなら、ナチスなんか、もっと普通にいてもいいレベルのものでしかないってのに。評価の不公平さには呆れるばかり。


4  引き返しつつある欧州社会

さすがに、あまりの混乱に欧州各国の政権レベルで移民政策の見直しが始まっている。

☆ドイツのメルケル首相は、「多文化主義は失敗した」と述べた(産経新聞2010/10/19)

>メルケル首相は16日、与党キリスト教民主同盟(CDU)の集会で、「ドイツは移民を歓迎する」と前置きした上で「多文化社会を築こう、共存共栄しようという取り組みは失敗した。完全に失敗した」と述べ、喝采を浴びた。
(略)
>人口8200万のうち約1600万人が移民か外国出身で、イスラム系は約400万人とされる。しかし、「ドイツは移民国家」であることさえ認めたがらない空気が保守層に強く、最近の世論調査では3割以上が「ドイツは外国人に乗っ取られる」と回答した。
>ハンガリーでもここ数年でヨッビクという極右政党が急成長し、先日の総選挙で23議席を獲得している。イギリスでも反移民を掲げる政党が多くの支持を集めているとの調査結果が出ています。

☆移民制限に突き進む英国(毎日新聞2014/4/15)

>しかしその後の英国は、東欧の移民を狙い撃ちした福祉の制限策を矢継ぎ早に導入するなど、想像を超える速さで「国を閉ざす」方向に進んでいるように見える。英国にはポーランドなど東欧8カ国が一斉にEUに加盟した2004年以降、40万人の移民が流れ込んだ。
>しかも今年1月から、「EUの最貧国」と呼ばれるブルガリアとルーマニアの国民が、7年間の移行期間を終えて移動の自由を得た。昨年末の世論調査では「両国の移民を規制すべきだ」との回答は8割近くに達した。政界では「移民の5年間凍結」や「EU脱退」を掲げる新興の英国独立党(UKIP)が
支持率を急速に伸ばしている。


☆極右や大衆迎合主義、欧州に浸透 移民規制や反緊縮…デモ相次ぐ(産経新聞2013/10/21)

>オーストリアでは9月の総選挙で大連立を組む政権与党が過半数を制したものの議席を減らし、極右の自由党などが伸長。フィンランドでも2011年の前回総選挙で躍進した反EUの真正フィン人党が堅調だ。

>9月に総選挙が行われたEU非加盟国ノルウェーでも、移民の受け入れ制限を主張する右派・進歩党が政権に初参加。
同党は極右思想を持ち、11年に連続テロを起こしたブレイビク受刑者が一時所属していた。

一般庶民レベルでは言うまでもない。ネットで、「移民 欧州」などで検索してみればよい。
Youtubeにもそういった映像がアップされている。

崩壊するスウェ-デン 既に低強度の内戦状態に突入
http://www.youtube.com/watch?v=KeLL6hNVrwc
オランダの悲劇―多文化共生がもたらしたもの
http://www.youtube.com/watch?v=r_RfSzawKUQ
やがてベルギー人のいなくなる町 ベルギーの首都ブリュッセル
http://www.youtube.com/watch?v=eXKSQ8lxwDU
移民亡国ドイツ
http://www.youtube.com/watch?v=Rvb-7KfKPwA
外国人参政権 あるドイツの悲劇   移民が増え少数になったドイツ人の子供がいじめにあう
http://www.youtube.com/watch?v=KzfShTdqjIA


5  なぜ「多文化共生」というまやかしが日本でもてはやされるのか

ま、もてはやされると言っても、それほどの大勢にはなっていないが。放射脳や九条信者ほどの悪影響は、今の所はない。しかし、今後は影響力をましていくかもしれない。国が移民政策を進めようという方向にいきつつあるから。

今現在の状況において、多文化共生を主張する側の論理、理由というものを考えた場合、いくつかの側面があると思う。

1.ヨーロッパ発の有り難い教えであるから(笑)。死刑反対やクジライルカ信仰のように。
2.日本が異文化侵入の被害をあまり受けていず、幻想を持ちやすいから。知り合いに夢見がちに話す人がいた(笑)。
3.世界の潮流だと思ってるから(笑)。実際は逆なのに。
4.日本のマスコミが、移民の害や軋轢をあまり報道しないから。
5.「お客さん」や「隣人」と仲良くするのが当然、という国内論理を対外的にも使おうとするから、あるいは、その方向に誘導する勢力があるから。
6.日本人は何でも遠慮がちにしないといけない、という戦後の自虐的感性があるから、あるいはそれを前提とするような議論があるから。
7.憲法に、「平和を愛好する諸国民」という規定があるので、外国人を悪く考える事ができないから(笑)。ま、これは笑い事じゃないが。中韓朝露なんかに挟まれた状態で、こんなののどこが平和を愛好する諸国だよ、っていう当たり前の感性が否定されてしまう(笑)。このうちの3国からは領土問題で侵害を受けていて、残りの朝には日本人を拉致されてるってのに。ほんと飛んでもない憲法を押しつけられたもんだ。

こういった所だろうか。

6  その他の問題点
 
     A.お互い譲り合って共存する、というのは可能か?

                                   
答-不可能である(笑)
    
それが可能だと思うのは、日本人が「お互い譲り合う」という文化を持っていて、他国もそうだろうと勝手に決めつけているから。そんな文化など持ってない相手には付け込まれるだけで、不可能である。

その良い例が韓国との間の慰安婦問題。宮沢内閣は、ある程度譲歩してくれれば韓国側がそれで満足する、といった相手の誘導にのって、うっかり根拠もないのに認めてしまった。その結果はどうなったか。付け込んでくるだけである。最近では、謝罪や賠償どころか、連行担当者の処罰まで要求してきている。
まあ、それが大陸に生きる民族の習性だろうとは思う。相手の弱みに付け込む事で自分たちの生存を図る。別に悪いわけではない。日本側が甘かっただけだ。

大陸においては、局地的にどんな秩序だった親和的な社会を作ろうと、他所からやってきた種族に蹂躙されれば何の意味もなくなる。文化どころか都市の住民皆殺しという事が起きる。そういった地域では自分たちの存続が最優先、他のいかなる道徳よりも大事であって、譲ったりしてはならない。日本は、玄界灘と東シナ海、オホーツク海といった天然の要害に囲まれてるから、そういう事が少なかった(例外は、元寇と日露戦争時の大艦隊通過、戦中戦後の米軍による攻撃と駐留ぐらいか。異民族が続々流入してきて住居を追い払われるという事は無かったーこれが起きたら戦争より遥かに悲惨な事になる。日本のサヨクは戦争だけが害悪のように言うが)。正道に則り行動すれば、たとえ殺されても、同様の価値観を持つであろう後世に評価されるのを期待する事ができた。名誉を残すことができる社会であった。

しかし大陸で皆殺しされれば忘れられるだけである。生存が最優先なのだ。騙そうと卑劣な手を使おうと生き延びなければ話にならない。正直にやって殺されても誉めてくれる人などいない。逆に日本のような社会では、卑劣な手を使うと、いつまでも悪名が消えないという面もあるかもしれないが。小早川が裏切り者の代名詞になっているように(これは、国内で完結する話ならそれでいいのだが、今のような国際化の時代だと、日本人の手を縛る面も出てくるかもしれない)。あるいは欧州のように、アルプス山脈やウラル山脈、地中海と大西洋に囲まれた一定の限られた地域で、外部からの進入路も押さえやすい地域に似たような民族が住んでる、というケースならまた事情は違うかもしれない。が、一般的には無理な話。

現代ではそういった要害は簡単に乗り越えられる。世界は、各民族・各国家の生存競争の場と化しているのであって、旧来の島国のマナーなぞ通用しない。世界が大陸の論理、つまり、いつでもどんな国でも破壊できるのだから譲歩したりしてはいけない、常に攻撃的であらねばならない、という論理で進んでいる。日本社会の美徳は、この国内の中にだけ置いておくしかないのだ。未来において、この美徳が見直されることがあるかもしれないが、その時には日本も日本人も存在してはいないだろう、このまま放置すれば。

今現在、国内に異文化の人達が住んで上手く行ってるではないか、という反論があるかもしれない。しかし、彼らは我慢してるだけである。なぜなら未だ少数派だから。これが一定の割合を超えたり部分的に多数派になったら、大人しい仮面をかなぐり棄てるだろう。既にそういう事例は起きている。北京五輪の聖火リレーが国内で行われた時、中国人があつまり傍若無人だったらしい。また敗戦直後、日本中が呆然として、しかも働き手の男達が戦場で捕らわれていた時、駅前の一等地を占領した在日を見れば良い。
追記9/19 つい今日、またその例となる事件が起きた。→魚拓
アップルのiphone6の発売で並んでいた列に大勢の中国人が割り込みをしかけて混乱したらしい。このサイトは銀座のものだが、大阪でもあったとか。今後中国人が増えたらこれが当たり前になるのは明白。要は、上に書いたように、他文化理解の問題ではなく、行動基準が違う、ということなのだ。多文化共生論者は、今後頻発するであろうこういった事態や、日本の文化破壊の責任をどうとるのか。)


昔はよく、海外に行ったら何か事故が起きても絶対に謝ってはいけない、という忠告がなされたものだった。少しでも自分の非を認めたら全面的に悪とされると。所がなぜか、最近ではあまり言われない。何故だかしらないが、それはまさに真実だったのだ。


      B.なぜ一部の人達は、進歩や理想社会を追い求めるのか?
                           
答-19世紀的思考の持ち主だから(笑)

20世紀中葉に、DNAが発見された。そして人間や生物はDNAを元に構成され、それを維持、拡散するのを根本的な原理として生きてると言うことがわかった。共産主義社会など幻想に過ぎない。誰もが自分や自分の子孫の利益を図ろうとするのが生存の根本原理なのだ。勿論その為に他者との協力はあるが、それは目的ではない。自己や子孫の利益が目的なのだ。

こんな事は人間が経験的に分かっていたことであって、だからこそ、共産主義に対する激しい反発が世界各地で起きたのだ。日本で共産主義者取り締まりの為に1925年に施行された治安維持法は正しかったのだ。それはその後の共産主義国家の惨状をみれば結果的にも明かだ。カンボジア、北朝鮮、中国、そしてソ連圏の崩壊。今そんな思想を持ってる人に聞いてみたいものだ。あなたは1925年の時点で、治安維持法や特高のある日本に居るのと、ソ連その他にいるのとどちらを選びますか、と。ちなみに、戦時下で逮捕されていた共産主義者はほとんどが戦後無事に出所してきたが(徳田球一他。2,3名が病死した)、ソ連に亡命した200名ほどの共産主義者は、8割が処刑、あるいは行方不明になったとか(笑。岡田嘉子の恋人杉本良吉など)。お互い保身のために密告しあい、スパイ呼ばわりしながら殺されていったらしい。シベリア送りにされた囚人は、零度近い海水を掛けられ、「マグロ」となって死んだ。処刑されたと記録に残ってるのはまだマシなレベル。それに比べて日本の対応の人間的だったこと! それでいて、治安維持法の悪口しか聞かないんだから、この世は狂ってるね(笑)。

(追記2015/12/16)
治安維持法とか特高だというと、条件反射的に拷問だ虐殺だとなるが、実際にはそれは極めてレアなケース。当時の日本共産党の最高幹部、徳田球一、志賀義雄、宮本顕治などは、十数年も獄中にいた後、戦後ピンピンして出てきた。拷問を受けた形跡などない。栄養状態も良さそうだ(笑)。

ここで大事なのは、十数年も無事に健康的に過ごせた、ということ。他の犯罪者同様に、通常の待遇であったということ。逮捕されたのはそういう法律があったんだから当然。

しかし、ソ連に亡命した人は、助けて貰えると思って行ったのに、大多数が殺された。これが結果として残っている事実。何かというと、戦前の日本を暗黒社会のように言う人たちがいるが、じゃあ、こういった共産主義者たちはどうやって10数年も過ごせたのか。なぜこんな自然な姿で居られたのか。もちろん、政府が安全と健康を確保していたからである。当時国内の最大の敵対組織にさえこんな待遇で対応したのだ。

私達は、過去については、事実を元に判断しなければならない。特定の価値観を前提とした評価など聞く価値はない。
(宮本顕治はリンチ殺人での殺人罪。ちなみに、獄中でも上訴ができてて、昭和20年に最高裁に却下されている。なんて人権の保証されていた時代だったんだろう(笑)。)

特高での拷問というと小林多喜二が有名で、かならずあの写真でいかに戦前の特高が残虐であったかとイメージ付けされるのだが、あの一例だけのようである(大杉栄殺害は戒厳令下での憲兵によるもの)。そして、こういった10年以上も無事にいて出所した幹部連中の事には何も言及されない。戦後のサヨクお得意の歪曲宣伝である。一面だけを強調して善悪のレッテルを貼り、攻撃・賞賛する。これは今でも普通にメディアによって行われてる。他の側面や状況を比較する事はしない。
一例でも許せないという人もいるかもしれないが(笑)、それを言うなら共産党だってリンチで殺してるし、共産主義者は20世紀に世界で一億人殺してる。
不思議な事に、その小林多喜二殺害と宮本顕治によるリンチ殺害は同じ年に起きていて、しかも、この小林多喜二殺害が特高によるものかどうかも疑問があるらしい。→ サイト
戦後のサヨクの宣伝は白黒逆にするぐらいの酷いものだったので(例:朝鮮戦争で先に攻撃したのは韓国だと言っていた)、これも宮本らによる可能性はある(リンチした後警察に通報して逮捕させるなど)。あの大勢で遺体を裸の状態のまま見ているシーンは奇妙である。そんな写真がある事自体が不思議な写真だ。
戦後の日教組、サヨメディアによる洗脳は想像を越えたものがあるので、何事もしっかり見なおす必要がある。
(追記終わり)


人間は一方で、幻想妄想の世界に浸りたくなる面も持っている。そしてそれに対する理性のコントロールが失われるケースがしばしば起きる。具体的には宗教であるのだが、共産主義は表向きは宗教を否定しつつ、自身が宗教の位置に収まった。科学的という言葉とは裏腹に、共産主義は「信じ」られたのだ。実現すべき共産主義社会というのは、まさに「天国」であって、その天国の実現のために彼らは戦った。信じる宗派(セクト)の為に血で血を洗う内ゲバ、内部抗争が起きた。これは最初の共産主義国家、ソ連の時代からそうだった。宗教の宗派の抗争と変わりはしない。要するに、ユダヤ教は、キリスト教、イスラム教、そして共産主義教を産んだ、という事。そしてそういった思想を担ったとほぼ同様の集団が、今は多文化共生などと言ってるのだからお笑いである。どうせそのうち、多文化共生のあり方を巡って争うに違いない。自分が絶対に正しい、というのが全ての行動の根源にある集団なのだから。

元々、イギリスの観念論の流れで、タブラリーサ(白い石)という考えがあって、人間には生後、どんな観念をも書き込む事が出来ると思われていた。まるで、パソコンに各種のソフトを乗せるように。確かに、そういう一面はあったのだが、その大元には、パソコンにOSやハード上の制約があるように、人間にはDNAがあって動きに制限が掛かっていて何でも出来るというわけではなかった。それに反する動きをさせようとしてもおかしくなるだけ。思うようにいかないパソコンは壊せってことになって、共産主義国家でお馴染みの大虐殺となる。この手の誤った理想に取りつかれ、自らを「善」、「正義」とみなしてる集団に絶対に権力を渡してはならない。この社会は簡単に地獄になるだろう。カンボジアのポルポトだって、殺戮をしたかったわけではないだろう(多分)。平等な社会を作ろうとしたのだろう。しかし、そのために国民の3分の1を殺してしまった。

共産主義者は、下部構造(経済関係)が人間を支配しているのだから、そこさえ変えれば(革命)、真に平等な社会とそれにふさわしい人間が出来上がる、と信じてたわけだが、そうはいかない(笑)。さらにその下にDNAがあって、それが真の支配者だったのだ。DNAはそんな理想社会など願っていない。子孫の繁栄を要求しているだけだ(笑)。この事は、北朝鮮における「首領様」一族の支配、中国における高官の子弟「太子党」による政財界支配などで、まさに共産主義国家で実証されているのが面白い。現代史における最大の皮肉の一つではないだろうか。アジア人てのは、実に正直に生きているってことだろう(笑)。欧米流の建前など自分や子孫の利益の前では蹴っ飛ばされる。これが生物としては正しい(笑)。欧米や日本のように、封建主義体制を通過してないので、契約の概念がないせいかもしれないが。

19世紀レベルの「科学的」知識で人間や社会について断定したのが間違いの根元。生物界においては、個体間でも種間でも、DNAを残すために常に競争が行われているわけで、共産主義社会など人間が人間である限り絶対に無理。DNAを書き換えるのは不可能だから(笑)。ま、こんなことは、DNAやダーウインの進化論を待つまでもなく、普通に生物や人間をみていれば分かることではあるのだが。

ただ、実は日本でもごく小規模な形ではあるが関連する事例がおきている。
東京都が1967年から始めた、高校入試での学校群制度。それまでの日比谷高校、戸山高校などのトップクラスの学校と底辺高との格差をなくそうと始めた。数校で学校群をつくり、受験生はその群を受けるが、合格した後、平等に各校に配分されどの学校に行くのかは分からない。確かに平等を狙うのなら理想的な制度だったのかもしれない。しかし、受験生側にとってのメリットがない。優秀な生徒にとって出来ない生徒と同じクラスにいても何の利益もない。結果、優秀な生徒は国私立高に流れ、都立高は衰退した。個人の側は自分たちの利益を最優先にするのであって、全体の理想のために行動するわけではないのだ。

戦後のいわゆる左翼・進歩派・良識派、それを引き継ぐ今現在のサヨク・九条信者・反戦平和団体・脱原発派の一部・そして多文化共生信者、こういった人たちは多くが、DNAなど無視しているようである。人間はどうにでも変われると思ってるらしい。しかも、固く信じてるからやっかいだ。自分たちの信念は絶対であり、間違いなどなく、自分は正義であり、言うとおりにしない政府・社会は糾弾の対象だと思ってる。その信念が間違ってるかもしれない、という契機(思い直すきっかけ)は彼らの中に存在しない。まさに「信者」なのだ。こういった集団に対してどう対応すればいいのか。中世に行われたように、全員まとめて焼き殺すしかないのか(笑)。しかし、自己を絶対の善、正義だと思いこんでる集団に対して話し合いなど成立しない。最も民主主義から遠いこういった存在にどう対応すればいいのだろうか。


世界には、自分たちの信じる「理念」を社会や他の人に押し付けようというヤカラが絶えない。死刑廃止、捕鯨反対、脱原発、九条教、オスプレイ反対(笑)、男女平等、そして共産主義、多文化共生その他無数に。それらの理念は、まるで神が下した託宣のように絶対に正しいものと当人達には信じられている。勿論、その正体は多くは、宗教を含めてただの妄想である(笑)。世界や宇宙、歴史を貫通して説明できる理念など、あるかも知れないが、この世の終わりにでもならない限り見えて来ないだろう。男女平等にしてからが、そもそも哺乳類の体の機能や性による役割の違いを無視している。権利は平等に保障すべきだろうが、内容を完全に同じにするのはおかしい。人間が爬虫類や両生類なら、完全に同じでもいいが。メスは卵を産みっぱなし、あとはオスメス平等に扱うって事で。人間が哺乳類であることの意味を少しは考えたほうがいいだろう。メスが乳を出して育てるのだ。同じ機械ではない。

それらの理念が個人のレベルで留まっていれば問題はない。どんな民族の人にも同じように接しようとか。しかし、ある種の人たちは、社会に強要してくるのだ。自分達が考えた理想の社会を無理やり実現させようとする。万人平等な社会、軍備のない社会、多文化が共生する社会。それが現実に可能なのかどうかは考えない。理想は実現されなくてはならないし、理想社会建設に反対する人がいたとしたら、それは悪であり排除しなければならないと思ってる。ポルポトがやったのはまさにその壮大な「実験」だった。そして国民の3分の1をも殺してしまった。理想にとり憑かれた人には注意しないといけない。

そういった理念の押し付けは主に一神教の世界から来ているように見える。日本では古来、そういった理念の支配は生じなかった。儒教や仏教、神道にしてからが、生活の一部限定で受け入れられた。天皇制があるじゃないか、という人がいるかもしれないが、あれは、日本の政治の一つの潤滑油として機能してきたきわめて現実的な存在であって、社会を支配するものではなかった。日本ではどんな万能の神でも、台風や、地震、津波、火山の噴火を抑えることはできない(笑)。日本人が現実的に対応してきたことの根本的な理由はそれではないかと思う。八百万の神が生じた理由もそれだろう。ヨーロッパでもペストの流行によって教会の権威が失墜し中世が終わったという説もある。一神教が支配的になった中東、欧州は、こういった天変地異があまり起こらない地域だというのも意味があるのだろう。

ところが20世紀に入って、共産主義の流行を発端として、理念の支配が何か素晴らしい進んだものであるかのような錯覚が生じてしまった。イデオロギーなど人間を機械化して特定の反応をするようにしむける装置でしかないのに、それに身を任せるのが立派なことであるかのように思われた。あらゆる理念は疑うべきであって、少なくとも現実において有効かどうか精査されべきである。現実の人間の良識、感情、理性などに合致するかどうか判断されるべきである。特定のイデオロギーや学説、特定集団の意向などで判断されてはならない。.

とりわけ欧州発の偽善的な理念は注意を要する。恐らく、植民地を失った事への代償行為として、そういった理念で世界を支配しようとしてるのだろう。問題は、それを「進んだ」ものとして受け取る日本などにいる自称進歩派の集団。彼らは何かそういった新しい思想が来ると何の疑いもなく飛びつき、自分らが進歩の側にいる、他より進んだ位置にいる、と信じるのだ。それが間違ってる可能性など眼中にない。共産主義の破綻を目にしていながら。死刑反対、移民難民の受け入れ、多文化共生。そういった制度でほんとうに社会が機能するのかどうかなど全く考慮にいれない。まあ、失敗しないと分からない種類のものかもしれないが。私は、少年法や責任能力欠如による罰の軽減もおかしいと思う。そういった主張があるのは構わないが。しかし、そういう主張をする側は、それを「正しい」と言い、他を否定するのだ。これらは、「正しいか正しくないか」、「進んでるか遅れてるか」という問題ではなく、「どちらを選択するか」という問題だと思う。こういった文化に関わるデリケートな問題は、国民投票でもやって決めるべきだろう。それも一度ではなく、必要に応じて何度でも。最近は欧米でも難民移民政策の見直しが公然と言われ、また実施されている。日本でも憲法その他、非核三原則なども、時代に合わせて見直すべきだろう。私は自分の主張が絶対に「正しい」と言ってるわけではないから、過半数が支持した意見には従うが。



それにしても、「変える」というアピールの持つ魔力ってのは恐ろしい。多くの政治家が提示し、大勢の有権者が期待する。Change!のオバマ大統領から、詐欺マニフェストの民主党、西宮維新の会の、「だでに投票しでも同じやおもでえ」の野々村県議にいたるまでしかも大抵の場合失敗してるのだが、いつも期待を集める。何かシステムを変えた場合、結果は論理的には、
  1.前より良くなる
  2.前と変わらない
  3.前より悪くなる

の3通りがあるのだが、なぜか必ず、良くなる結果になると思いこんでる。とりわけ、革命的な変化を起こした場合、悲惨な結果になる事が多い。フランス革命がそうだったし、ほとんどの共産主義革命もそう。中でも酷かったのが、カンボジアや中国の文化大革命。そういった場合は、何十万、何百万といったレベルで民衆の殺害が起こる。社会自体が崩壊してしまう。だから、上に加えて、
  4.システムが機能せず社会が崩壊する
というのを付け加える必要がある。多分、社会の仕組みは生物のDNA同様、長い年月を経て調節されてきたもので、簡単には取替えが利かないのだ。ほとんどの突然変異が失敗に終わるように。人が空を飛べたらどんなにいいだろうと思って、鳥や昆虫の遺伝子を取り込んでも、間違いなく機能せず生物として存在できない(笑)。スパイダーマンとかあり得ない(笑)。社会もたとえ不満があっても簡単には変更できない。気象の仕組みが完全には解明されていないように、社会の仕組みも科学的な分析が不十分なのだろう。だから人為的にシステムを作っても上手くいかない。ただ、ちょっと不思議なのは、日本の明治維新。支配体制を総とっかえしたのに、さほどの混乱は無かった。旧サムライ階級の戦いはあったが民衆レベルでは大きな混乱は起きていない。天皇制を存続させたこと、藩制度を一定程度残したことなどが影響してるのかもしれないが。鎌倉幕府成立もかなりの変更だけど混乱は起こしていない。

(10/30追記)
最近の中東、北アフリカの混乱も、上の「4.システムが機能せず社会が崩壊する」の一種ではないだろうか。
欧米のリベラリストが余計なお節介をして混乱させた結果だろう。カダフィやフセインを倒し、アサド政権を弱体化させ、アラブの春などといって、民主化への道を示した。しかし、その結果、収拾の付かない混乱が起きてしまった。あのような独裁体制は、欧米のリベラリスから見れば許せないものだったのだろう。しかし、アラブの民族性には合っていたのだ。はいあとは民主主義でやってね、なんて言っても機能しないのだ。当然のように上手くいくもんだと思ってたのだろう。欧米流の考えが通用するアジア諸国なんて、せいぜい日本ぐらいのもの。
まあ、その結果、難民流入という形で自国が混乱する事になったというのは、いい教訓だろう。自分らの独善的理念を他地域に押し付けるのはこれ以上やめてもらいたいものだ。
(追記終わり)


しかしまあ、革命幻想というのは消えないものだ。この社会が一気に理想的な社会に変わる、という夢を見るのは心地よいのだろう。未だにそれを信じて活動してる過激派左翼がいるし、政党がある。共産党も暴力革命(この言葉自体が奇妙なものだ)は表に出さないが、捨てたわけでもないらしい。この革命幻想が拠って立つ基盤は、以下のようなものだろう。

1.人間の精神はタブラリーサのように自由に書き込み可能なものである
2.人間は神が作った、完全に理解可能な機械である
3.天国は実現する(笑)


全てキリスト教から出たものだ。1は上に書いたが、2が問題だ。人間てものは他の動物同様、完全な理解を拒絶している。できない事はないだろうけど、多分、何十年、何百年とかかる。過去数十億年の進化と生存競争、環境適応の過程を全て掌握するのは難しいだろう。しかし人間はその結果できたものだ。理解は不可欠だ。まつ毛の形や機能の十分な説明でさえ、最近やっとできたばかりだ。脳の構造とか大変だろう。なのに、これらの理解をすっ飛ばして人間の変革が可能だというのが、共産主義者の思い込みだ。なぜ、そんな単純な思い込みが生じたかといえば、それは19世紀の科学によっているから。それは人間に見える、感じられる、地上で確認できるものが対象だった。しかし、話はそれでは済まなかったのだ。19世紀末のアメリカの有名な笑い話に、特許局の職員が、もうこれ以上新しい発明はないだろうと言って職を辞した話がある。確かに目に見える世界での発明発見は出尽くしたのかもしれない。しかし、この世はそんなもんじゃなかったというのが、20世紀の知見なのだ。

1.について補足すれば、聖書の文句に「悔い改めよ、天国は近い」というのがある。人間は悔い改めができるのだ、という前提がキリスト教にはある。気持ちを入れ替える事ができるのだ。まあ、そういった考え自体は悪いことではない。しかし、社会のシステムや法制度にそれを頑強に適用するのはどうなのか。近年の罪の軽減化や死刑廃止の主張も、それが背景としてあるのだろう。「教育刑」という考えもそれを背景としているのだろう。しかし、それは実際には有効ではないようだ。再犯の割合は相当に高いらしい。更生した人いる事はいるだろうが、一般的に機能してるとはとても言えない。特に性犯罪などに関して。少なくとも殺人犯は原則、死刑にすべきだろう。他人の命を奪っておいて、本人は生きながらえるというのは、許しがたい。

もう1つ1.について補足すれば、よく共産主義国では指導者の賛美が行われるのは周知の事実だろう。とりわけ子供に対して学校において行われる。それは無垢のタブラリーサに書き込めば、それが一生有効だ、という思い込みからだ。「スターリンは子供好きの優しいおじさん」だという宣伝とか、金日成賛美の歌や踊りが徹底的に教えられる。中国の文革で青少年が使われたのも同じ意味があるだろう。ポルポトのカンボジアで、子供を親から離して共同生活させたのもその意味だ。全く新しい思想を「インストール」しようとしたのだ。レーニンが革命を起こして最初に出した指示が、新聞と学校を抑えろ、ということだったらしい。実に「炯眼」であったのかもしれない。日本も戦後、それが行われた。日教組とサヨクメディアがその実行部隊だ。しかし、それは実は有効ではないのだ。共産国の瓦解を見れば証明済みであるが。それはなぜかと言えば、動物はDNAに支配されてるからである。理念やイデオロギーなど何ほどのものではない。動物の本能には到底勝てないのだ。子供のうちは有効でも大人になれば独自に行動を起こす。自己と子孫の繁栄のために。そんなDNAなど知らない時代に作られた思想を未だに信仰してる集団がいるのがおかしい事ではあるのだが。


   
      C.有能な移民なら認めていいのか? 
                                 
答-倫理的にNo!

それを認めたら、元の国はどうなるのか。元の国には肉体労働者だけが残るのか。
人間の能力に格差があり、それを埋めることは普通は出来ない。医者や法律家、科学者が能力があるからといって外国に行けば、その国はどうなるのか。どうしてもその国にいられない人ならやむを得ないかもしれないが、そうでないのに、移民を勧める、受け入れる、という風潮は認めることは出来ない。そういった人達は、祖国の為に働くべきだろう。それが自分を産んでくれた社会、集団の為にやるべき事ではないのか。

  
      D.そもそも「多文化共生」という発想はどこから来たのか?

          
答-それまでの他人種差別への反動、固有の文化を破壊するため、など

ま、これについては良く分からない。捕鯨にしても死刑制度にしてもそうだが、反対方向に急激にスタンスを変えている。60年代辺りを軸にして180度変わっている。

たとえば、1958年のベルギーの「人間動物園」


(見世物の黒人少女をみんな笑って見てるようだが、やや右より、正面にいる女性だけが、頭を傾けて違う反応を示しているように見える。一人でも疑問を持つ人がいれば救われるというものだ。左側から何か物を与えて面白がってる女性と、その右側でちょっかいを出そうとしている少年には既視感がある。以前見たことがあるのだろうか)

こんな事を平然とやってた連中が、いきなり綺麗事を言い出した。
アメリカでも、60年代まで黒人を人間扱いしない、制度的な人種差別があった。白人に見られるエキセントリックな性癖が出ただけなのかもしれないが、思潮の変化が激しすぎる。それまでの考えが間違ってたということで、後先考えずに、それではと思いついた反対方向の過激な主張をやってるだけなのかも。確かな事は分からないが。

調べて見ると、新大陸では60年代以降、原住民を人間的に扱おうという機運が高まり、また移民同士の融和が必要だとして多文化主義が出来たらしい。欧州では元々は労働力としてイスラム系を60年代、70年代に入れ始めたのが切っ掛けらしい。それはそれで、必要性から始まったという事で納得出来ないわけではないのだが、どうも多文化共生主義者の非常に狭量なイデオロギー的な態度が気になる。それに、日本では実際的な必要などないのに、この思潮だけが導入されている。西欧思潮崇拝者が勝手にやってるのかもしれないが、陰に左翼系がいるのではないか。

ホブズボウムの「伝統の創造」など主に欧州の国家の形成を下敷きとして、民族の伝統や文化などは近世に意識的に作られたのだという思想が流行った事がある。本人達はどういう意図だったかは知らないが、これが共産主義者に利用された面があるのではないだろうか。伝統や文化など政治的に作られた仮の衣装にすぎず、本質的なものではない、と言いたいのだ。なぜなら、彼らにとっては民族性や伝統は邪魔だから。そういったものを考慮に入れたら、民族別、国家別に歴史の諸段階を考えないといけない。絵に描いたような必然的な歴史など無くなってしまう。そんなものはない方がいいのだ。だからそんなものは只の幻影だとして破壊しにかかってるのではないだろうか。まるで、映画「ターミネーター」で、人類側リーダーを抹殺するため、その母親を殺そうと過去の時代に暗殺ロボットを送ったように。現状が変えられないのなら、過去から変えてしまえというわけだ。

欧州の国家の形成が近世なのは当たり前。国境だって確定的なものは無かった。特に西欧は元々は小領邦の漠然とした集合だったし。ポーランドなど国土自体が東西に動いている。トルコはユーラシア大陸を半分も移動。当然、伝統や民族性も「創造」された面もあるだろう。しかし、アジア他では違う。日本だと、おそらくは「万葉集」の時代までには基本的なものは出来上がっていただろう。それらの歌に認められる感性は、今とさして違わない。そもそも、欧州にだって、ユダヤ民族という、民族性にかけては他の追随を許さないような集団がいるんだから(笑)、欧州以外に拡げるのは無茶すぎる話。ユダヤ人の場合、おそらくは3千年ほど前、少なくともバビロン捕囚の2500年ほど前には民族性は出来上がってたのではないだろうか。ヨーロッパにしたって、各国の文化、社会のありかたはそれぞれに違う。人間関係の持ち方が明らかに違う。2国家の間で揺れ動いたアルザス地方を描いた「最後の授業」にあるように、確かに意識的に作られた部分はあるのだろうが、本体部分は固有のものがあるのではないだろうか。

そういった民族性を破壊する為に、まず社会を各民族のごった煮にして、固有の文化を破壊する、その実効的な手段として、イデオロギーとしての「多文化共生」が導入されたのでは。共産主義への幻想が完全に覚めるのがちょうど60年代辺りなので、西側でそれを担ってた集団が仮面として使い始めたのではないだろうか。


       
E.その他の細々とした問題点

a.日本など先進国が「受け入れ側」としてのみ捉えられている点。
要は、インフラや経済環境を移民に対して提供せよ、という事なのだ。それは問題があるのではないか。二重に不公平である。先進国住民と移民、移民と元の国の国民との間で。これが、「多文化共生」なのだろうか。

b.日本人が他国で同じ待遇で迎えられるとは限らないのに、一方的な犠牲を強いられる点。
まるで、憲法九条問題と同じ(笑)。日本だけが武装放棄しても何の意味もないのに。

c.固有の文化の保存が難しくなる点。
社会的な慣習なども、上に書いたように難しくなるが、例えば、絵画彫刻などの保存が難しくなる恐れがある。日本オリジナルのものだけを保存する事はできないだろう、多文化共生の趣旨に反する(笑)。他国他民族の文化をも同等に尊重しなければならなくなる。一つの美術館に世界各国の文化のものを、少量だけ展示する、そういったものが世界中に出来ることになる。

d.公教育が同様に難しくなる点。
これは既に弊害が各国で出ている。授業で使う言語や教科書をどうするのか。日本では、朝鮮人学校で使う教科書の内容と学校卒の資格を巡って、以前から問題になっている。また、大学レベルで、世界各国の言語歴史文化についても同程度に扱うのか。あり得ない話だが。

e.祝日はどうなるのか(笑)
子供の日(端午の節句由来)、勤労感謝の日(新嘗祭由来)など文化由来の祝日がある。正月だってその一種。中華系が増えると、旧正月も祝日にしろというかもしれない。モハメッドやキリストの誕生日も。鯉のぼりを飾ったり、祝日ではないが、桃の節句に雛飾りをするのは偶像崇拝だと文句を言われるかもしれない(6/13追記。これは実は半分冗談で書いたのだが、なんと実際に似たような事件が起きてしまった。→魚拓 慶応の大学院へ留学していたサウジの学生が、浅草寺で仏像を破壊したのだ。なんということだろうか。バーミヤンの石仏のように、自分たちの領域でそういった事をやるのはしょうがない面もあるが、留学先でやるとは。ちょっと理解不能.。多文化共生どころか、他文化の存在を認めない人達さえいるのだ。多文化共生の不可能の明確な例ではないか)ブードゥー教やマニ教や統一協会への配慮も必要。何しろ平等に扱わないとね(笑、サウジの学生の件でもはや笑えない)。

ま、これが冗談で済めばいいのだが(済みそうにないが)、実は民主政権時代にきわどい事態があった。祝日を地域によって分散させようという、バカげた提案である。それまで全く聞いたこともなく、要望の声が出たこともないと思うのだが、突然民主内部から出てきた。非現実的だということで立ち消えになったのだが、一体、誰が、どういった目的で出したのか。表向きは交通渋滞や観光地の混雑の緩和とかが理由だったが、普通、そこから祝日の地域分散を考える人などいない。相当に奇妙な方向性である。

推測だが、これは文化破壊を目的としたものではなかったろうか。民主の下部組織の実働部隊は旧社会党のものがそのまま横滑りしてきたものらしい。その辺りから出たのでは。祝日には、特定の日でなくても構わないものもあるが(敬老の日や海の日など)、多くはその日にちに意味がある。それを動かすと言うことは、その意味を無くすということ。日本文化破壊への一里塚のつもりだったのでは。一部には戸籍を破棄しようと言う動きさえあったらしい。その理由というのが、戸籍のない外国人を差別する事になるからとかいうのだから、呆れるしかない。戸籍は日本人日本文化の根本資料である。いったい誰のための政党なのか。一部の人間が思い込んだ理念に社会や歴史は従わないといけないらしい。偽善どころか、邪悪のレベルに達している正体不明の政権であった。実際日本文化の破壊を目指していたのではないかとしか思えない。彼らが公然と多文化共生を言ったかどうかは記憶にないが、やってたことはまさにそれであった。


とにかく、まともじゃない話なんだから、次から次へいくらでも出てくる。要は、共産主義幻想と同じなのだ。この世にあるべき事柄ではない。人間の生理に反している。
(2014/4/30)


7  結論(のようなもの)

通常、私たちは、今住んでる社会は大体こんなものだろう、という了解の元に生きている。日本でなら、列に並んでボーッとしていても割り込む人はいないだろう、道の向こうからやって来る人は少しは避けてくれるだろう、夜中にお腹がすいて女性がコンビニに行っても無事に帰って来れるだろう、ってな具合に。大体は普段感じてる通りに、周囲の人や社会は動くだろう、と思ってる。

これはどこの社会でも同じだろう。通りが違うごとに、時間帯が違うごとに、通り過ぎる人ごとに、異なる対応を取って生きるなど耐えられない。話す言葉が違い、仕種の意味が違い、人間関係のルールが違い、衛生観念が違うとかやってられない。だからこそ、移民だって固まって住むのだ。だから、異なる文化の人は異なる地域、できれば異なる国に住むのがいい、というのはごく当たり前の感覚だろう。「別居」がいいのだ、生活感覚として。・・・・(1)

世界的に見ても、冷戦崩壊以降は民族ごとに分裂が続いていてしかもそれは加速している。唯一の例外だったEUも崩れかけている。東欧諸国は入りたがっているが、それはロシアの影響から逃れたいが為だ。お互い自分たちの民族や文化を大事にしたい、維持して発展させたいとどこでも思ってるだろう。大国の一部になって弾圧されるのは嫌だろう。中国では現に凄惨な迫害が続いているが、抵抗も続いている。また文化面でも、小数民族の言語や文化は絶滅が危惧されていて、それらを守るべきだというのは誰も異論はないだろう。中国政府あたりを除いては。それらは人類の遺産なのだ。その為にはそういった民族は固まって住み、出来れば自治政府あるいは国家を作って住むのがいいというのは明かだろう。ばらばらに住んだら消えていってしまう。多文化共生論者だって、「多」文化と言ってるぐらいだから、個別文化の保護、維持には反対はしないだろう。・・・・(2)

生活実感(1)からも、世界的な民族自立の動向(2)からも、お互い「別居」がいいのだ。所がどういうわけか、こんな状況を前にして、多文化共生論者は、「同居」を要求するのだ。一体どういうことなんだろうか。全く理屈に合わない。本来の内的な論理ではない、何か別の外部からの論理が働いているとしか思えない。可能性としては、

1.資本家の論理(安い労働力を手に入れたい)
2,何らかの隠されたイデオロギー

が考えられる。始まりは1.だったのかもしれない。現にそういう面もあるだろう。しかし、今の欧州での暴動騒ぎなどを見ればそうだろうか、と思ってしまう。それに資本家は今は60年代と違ってグローバル化していっていて、必ずしも国内に他国の労働力を入れなくてもよくなっている。通信、運輸の発展のお陰で。あの移民国家アメリカにしてからが、ビッグ3の自動車やアップルのiphoneなどはほとんど外国で作っているらしい。

てことになると、2.があるのではないだろうか。どんな文化も差別しないで仲良く住みましょう、ってのは表向きの言葉で、実は別の目的があるのではないか。「反戦平和」団体が、実際は中国やソ連の手先として動いていたように。何度も書いたように、共産主義の退潮と多文化共生論の盛り上がりは逆のカーブを描いている。入れ替わっているのだ。共産主義者の偽装なのではないだろうか。

それは勿論、固有の文化を破壊するためだ。多文化とかいいながら、実は方向性は逆なのだ。それが現在の取りあえずの結論。

最後に。多文化共生論者はウクライナに行って、多文化共生を呼びかけてきてほしい。九条信者はシリアに行って、九条の旗を高く掲げてきてほしい。善人ぶるのはその後にして。

(5/19)


※ 欧州議会選挙の結果について(6/9追記)

どうも、議員数や各勢力の按配がよく分からないので、まとめてみた。
普段まったく意識してないしあまり興味もないのだが(笑)、多文化共生関係で今回は関心をもったので。

まず、各国内での状況

イギリスでは、EU脱退と移民受け入れ凍結を主張する独立党(UKIP)が29%でトップ、国内で議席なしの政党なのに。
フランスでは、国民戦線が25%の得票でトップ。前回3議席から8倍増。オランド大統領の社会党は3位
デンマークでも、移民反対のデンマーク国民党が27%でトップ。
ドイツでも、EU懐疑派の「ドイツのための選択肢(AfD)」が初議席7、
イタリアでも、反EUの五つ星運動(M5S)が17議席
オーストリアでは反移民の自由党は20%の票を集めた
ギリシャの反EUの急進左派連合(SYRIZA)も26%の票を集めトップになった。

全体をまとめると(カッコ内は前回との比)

統一左派   45(+10)   左翼
緑の党系   52(-3)   中道左派
社会民主主義 189(+5)  中道左派
リベラル民主 65(-19)  リベラル
  以上、左派リベラル系、-7

欧州人民党、保守214(-51)中道右派
保守懐疑派46(-8)     中道右派
  以上、右派系、-59

欧州懐疑派38(+6)               右派
無所属(極右政党系、政党未結成)  41(+15) 極右中心
その他(混成、AfD、M5S、黄金の夜明けなど) 61  右派中心?
  以上、ユーロ懐疑派系、+82?

全体 751(+15)。数が若干食い違うが、メディアによっても数が違い、正確なところはよく分からない。

左派リベラル系がわずかに減少、右派系が大幅減、その分を極右が食ったといった状況か。
右派系が支持を失ったというより、もともとEU統合に消極的だった層が、積極的な拒否を示すようになったということだろう。
もちろん、その理由は移民に違いない。国内政治での支持率以上に、このEU選で躍進しているということは、政党としてはそれほどの信頼はないが、EUの方針、とりわけ移民政策に影響を持たせようという民意なのだろう。
ただ、それでも、どの国でもそういった勢力は20%台、大勢にはなっていないということはいえるが、芽生えなのかもしれない。どの極右政党も躍進している。政治は動くときは急激に動く。ソ連の崩壊がそうだった。国民戦線の政策や指導部の感覚は、割と普通で日本人の感覚に近い。作られた理想によって自らを縛る方向から、もっと現実的な方向に向かってほしいものだ。

ワーグナーの楽劇「リング」では、神々は自らが決めた契約に囚われて滅亡していく。まるでそのままを見ているようだ。