歌集「瀬音」より抜粋 
         (2016/1/15更新)   



昭和46年

第二次大戦中、日本は膨大な数の輸送船を沈められ、多くの船員が民間人でありながら海に散った訳ですが、その慰霊碑が戦後20年以上経って初めて立てられたとき、雨の中除幕式で詠まれた歌、

>
    観音崎戦没船員の碑除幕式激しき雨の中にとり行われぬ
>
>かく濡れて遺族らと祈る更にさらにひたぬれて君ら逝
(ゆ)き給ひしか


海中でまさに「ひたぬれて」船員達は亡くなった訳で、生々しい言葉です。遺族の心は20年以上前に引き戻された事でしょう。そして「君ら逝き給ひしか」と死者の無念に思いやり語りかけるこの歌は、通常の儀礼の歌の範疇をはるかに超えています。万葉集の挽歌の世界ですね。

船員であったが為に、助かっても再度輸送に携わり、その為に何度も被災した場合もあったという。攻撃を受けての沈没は、一面の油と火災、そして銃撃などの中に投げ出されるわけで、通常の船の沈没とは全く違う。しかも、船員は民間人だったため、軍人恩給は勿論、国の補償は受けられなかったと聞く。

私は、この歌だけで、美智子さんは日本の歌の歴史に残ると思う。和歌短歌というものが、個人の単なる趣味手すさびのレベルを超えて、現実に関わり、意味を持った希有な例だろう。そういう意味でも、古今集新古今集を越えて、万葉集に繋がると思う。



平成15年、皇后美智子様が出雲大社に参拝されて詠まれた歌が、門の脇に大きく掲げられていました。

>    出雲大社に詣でて
>
>国譲
(ゆづ)り祀(まつ)られましし大神の奇しき御業(みわざ)を偲びて止まず

国譲りの対象は天皇家の祖先ですから、天皇家の側からは歌いにくい題材でしょうが、大国主神の事績を上二句に簡潔に表現して「奇しき御業」と称揚し、それを2千年以上後の現代から遙かに偲ぶ、と、非常に大きな題材を1首の中にまとめた苦心作だと思います。

「奇しき」には「くすしき」と「くしき」の2通りの読みがありますが、この場合は「くしき」でしょうか。意味は「神秘的だ、不可思議だ」といった所で、神の形容によく使われるようです(くすしき、だとまた違う意味が加わる)。

明治維新同様、比較的平和裡に行われた政権の委譲と前代の支配者の引退を、大国主と言えば思い出される各種の物語を含めて、「奇しき御業」と表して畏敬の念を込めるなど、上手いものだと思います。
言われてみれば当たり前のような言葉ですが、そうは思いつかないのではないでしょうか。

(この歌は「瀬音」の中にはありません。出雲大社で拝見しました)



昭和46年、まだ完全破壊される前の、顔の前面部分を削がれた状態のバーミアンの石仏を詠んだ歌、

>    アフガニスタンの旅
>
>バ−ミアンの月ほのあかく石仏は御貌
(みかほ)削がれて立ち給ひけ


これも、みかおそがれて、という激しい表現があるものの、異教徒による自らへの傷害行為をも許し、ほの暗い月の下静かに瞑想を続ける仏の心と姿が、「立ち給ひけり」という言葉で十分に表されていると思います。

また、仏が虎に身を捧げた話とか、
芭蕉の、

  若葉して御めの雫ぬぐはばや 

での鑑真の瞑想にふける姿も連想されます。



昭和35年

>     浩宮誕生
>
>含(ふふむ乳(ち
の真白(ましろ)きにごり溢れいづ子の紅(くれない)の唇生きて

「真白きにごり」とは実に美しい表現で、作者の鋭い言語感覚が伺える。「にごり」という言葉をこのように美しいイメージで読んだ和歌、俳句といったものが他にあるのだろうか。通常使うことさえあまり無い言葉ではないだろうか。濁り酒濁れる飲みて、などと、淀んだ心象を託した歌は思いつくが。

美智子様の歌にはこの歌の「にごり」のように鋭すぎるような言葉の使い方がある。まるでマクロレンズで撮った花の写真のように、一点を凝視している。



昭和41年

>     歌会始御題 声
>
>少年の声にものいふ子となりてほのかに土の香も持ちかえる


 子供が、甲高い幼児声から少年らしい声の出し方をするようになる頃、外であそびふけって帰ってくると、衣服には土や土の香りがついてしまっている、という少年のある時期を切り取った歌。懐かしい気持ちにさせてくれる歌です。歌われたのが1966年、ご長男の皇太子徳仁親王(浩宮様)が生まれたのが1960年なので、6、7歳。まさに丁度その頃を歌った歌。

 ちょっと面白いのは、「声に」という言い回し。この場合の「に」は何だろうか。勿論意味は十分通じるのだが、日常的な用法ではないような気がする。普通そういう場合は、「声で」という。助詞「に」には、〜でもって、とか、〜の状態で、といった意味は無さそう。だから通常使う助詞の「に」ではなく、古典語の断定の助動詞「なり」の連用形か。これなら、今は少年の声になって、というニュアンスが出る。「声で〜」だと硬すぎるし、あまりにも風情が無い。ちょとした言葉の感覚ではあるが。



昭和44年

>
     歌会始御題  星
>
>幾光年太古の光いまさして地球は春をととのふる大地


何万光年、何億光年離れた星から、遙か太古の昔に旅立った光がいま地球に射していて、その地球では今年も大地の上で春の準備が整えられている。
美智子さんの歌としては、ちょっと異例な印象を受ける歌。物理的事象を、硬い言葉と言い回しで詠んでいる。特に下の句の言葉の調子は連歌を思わせる。


 芭蕉「冬の日」より
  ・・・・・・・・・・・・・
      あるじは貧に耐えし虚家
(からいえ)


  ・・・・・・・・・・・・・
      北の御門をおしあけのはる

  同「猿蓑」より
  ・・・・・・・・・・・・・・    
      今年は雨の降らぬ六月

連歌の場合は、77で言いたいことを言おうとするから押し詰まった言い方になるわけだけれど、和歌では大概上の句でテーマは示されてるから、普通そんな調子にはならない。この歌の場合、上の句と下の句が対比的な事象を扱っている。上の句は長大な時の流れを、下の句は地球の一年の中の変化を。その地球の、春夏秋冬春夏〜とコマのように回るあくせくした動きを押し詰めて表現しているようで面白い。

 ちなみに、3番目の連歌は、発句が「むめが香にのっと日の出る山路かな」。途中の芭蕉の句の中に、「こんにゃくばかり残る名月」てのがある(^.^)。なんで日本人は大して美味しくもない蒟蒻を食ってきたのだろうか。健康に良いと当時から分かってたのだろうか。
(
2011/9/24)



昭和58年

>     蜩
>
>かかる宵
(よい)われは好むという吾娘
(わこ)のまみ優しみて蜩(ひぐらし)をきく

まみ・・・目もと

宵とか夕べという言葉は、現代ではほとんど死語になってしまった。かつては一日の仕事の終わったあとの休息の時間、夜の迫るのを何とはなしに待つ時間であったろう。そんな寛いだ時間に、母娘が蝉の音を聞きながら心を通わせている、そういう情景を描いた歌。吾娘とは勿論清子内親王。
おそらくは夏の終わり、暑い日差しの過ぎ去ろうという時期の歌。季節的にも時間的にも、好きだと確かに言える時間であろう。

これと対照的な夏の夕べを歌った詩、

大岡信「夏のおもひに」より

>このゆふべ海べの岩に身をもたれ。
>こころ開かぬままに別れしゆゑ
>ゆゑもなく慕はれるひとの面影を夏のおもひにゑがきながら。

(
2011/10/20)



昭和60年

>     歌会始御題  旅
>
>幼髪
(おさながみ)なでやりし日も遠くしてをとめさびつつ子は旅立ちぬ

〜さぶ・・・〜らしくなる、〜に見える。
をとめさぶ・・・少女らしくなる。


この年清子内親王は16歳。中学卒業、高校入学。幼い頃の髪を撫でてた日々も遠くなって独り立ちしていく年代。卒業旅行にでも行くのであろうか。

>山部赤人
>天地の 別れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を〜


神さびて高く貴き・・・神々しく気高く貴い

この山部赤人の長歌は勿論名作だが、実はこれに、あの盲目のフォークシンガー長谷川清がメロディーを付けている。かつてコンサートで歌ったのをFM放送で偶然聞いたが、良い曲だった。所がなぜか正式なレコーディングはしてないらしい。前半は覚えているのだが、途中から分からなくなる。もう一度歌って貰えないだろうか。

(2011/10/21)

ボーカロイドに歌わせて見ました→そのページ


平成七年

>     陽炎
>
>彼方なる浅き緑の揺らぎ見ゆ我もあらむか陽炎
(かげろう)の中

彼方にある緑の木々が揺らいで見える。私もそんな風に揺らいで見えているのだろうか、陽炎の中で。
自分の姿は自分では見えない。とりわけ常に見られる立場にいる皇族にとっては大きな問題であろう。

あまりこんな事は書きたくないが・・・・
平成五年、週刊文春編集長、花田紀凱他によって突然、マスコミで美智子様バッシングが始まった。理由は昭和天皇ゆかりの木を切っただとか、夜中にインスタントラーメンを作らせたとかいう他愛のないもので、しかもそれでさえ根拠の無いものだったらしい。一体、どういう勢力のどういう意図によるバッシングだったのだろうか。

この時期、大喪の礼、即位の礼、そして二人の子どもの結婚と、皇后としても母親としても、恐らく人生の中での最難関の峠を乗り越え、ほっとされていた時期だったのではなかろうか。それらの、他のものとは比較にならない重大な式典で、何か咎や瑕疵が有ったというわけでは無い。全く滞りなく行われた後で、インスタントラーメンがどうしたということでバッシングを受けるとは、現実のものとは信じられなかったに違いない。皇太子妃としても日本や世界を巡り親善や公務に務められてきたのは誰でも知っている。取り上げる方もどうかしてるとしか思えないが、まあ、他に攻撃の手が見つからなかったのだろう。

が、そのショックのために美智子様は失語症に陥られ、声が出なくなってしまう。翌六年硫黄島への慰霊の旅の後、声が出るようになったという。この歌は、そのすぐ後のもの。その時の、国民の視線に晒され、心理的に閉塞してしまったご自身の辛い思い出もこめられているのだろうか。そう思えば、「我もあらむか」という言葉は悲痛である。

しかし、日本も妙な国になったものだ。国を破壊しようとしているようにしか見えない政党が政権を取ったり、世界選手権で優勝した日本人選手(浅田真央選手)をワイドショー枠一杯を使って何故か侮辱し続け、勝てなかった他国の選手を持ち上げる番組が作られたり。あのスポーツ専門家を気取ったタレントだかなんだか分からない司会者は一体何なんだろう。

この記事の為に花田は編集長を辞めたらしい。しかし、それで済むのだろうか。ほとんど根拠の無い、しかも、えらく詰まらない理由で、週刊誌という社会的影響力のある公器を使って攻撃したのだ。通常なら名誉毀損、刑事罰に相当する事例ではないのか。しかも記事の目的に公共性と言ったものが全くない。これが事実だったとして、どんな社会的利益が侵害されたというのだろうか。政治腐敗を追及するとかそういった目的とは全く違う。何か特定の意図を持った個人攻撃にマスメディアを使ったのである。責任の取り方が不十分だと思う。

しかしまあ、きっと個人では逆らえない何かの勢力に従わされてる面もあるのだろう。花田氏を始め、そういった方々は、是非、死の間際にでもいいから、真相を語って頂きたい。

(2011/10/23)




平成六年


>     硫黄島
>
>銀ネムの木木茂りゐるこの島に五十年
(いそとせ)眠るみ魂(たま)かなしき
>
>慰霊地は今安らかに水をたたふ如何
(いか)ばかり君ら水を欲りけむ


昭和20年2月、約2万の日本軍将兵の守る硫黄島に、米軍は約6万の海兵隊と多数の戦艦、空母群と航空機をもって攻撃をしかけ、約1ヶ月の激戦ののち占領した。日本側は地中に坑道を堀り、そこから随時出撃して抵抗した。火山島の為、至る所で硫黄ガスが吹き出し、坑道の中は常に40度前後の暑さになるという悪条件の中での戦いであった。水は雨水を貯めた物か、海水の混じった井戸水だけであった。夜、渇きのあまり水を求めて外に出た兵隊は、多くはそのまま帰らかったという。将兵は日本本土への攻撃を一日でも遅らせ、敵の戦力をいくらかでも削ぐ為に戦った。結果、日本側はほとんど全員戦死、米軍側は約七千人が戦死、2万人以上が負傷し、ノルマンディー上陸作戦以上の損害を受けた。日本兵の戦いは「鬼神ヲ哭シムルモノ」であったと総司令官栗林中将は電報を発している。この島を失った結果、米軍の本土爆撃は更に激しいものとなった。 

どんなに水が欲しかったでしょう、と語りかけるこの歌は、上の戦没船員の歌同様、兵士に寄り添う気持ちに溢れていると言えるだろう。銀ネムはネムノキの一種。美智子様はよく知られてるように「ねむの木の子守歌」という詩を作られている。その一節、

>故里(ふるさと)の夜(よ)の ねむの木は
>今日も歌って いるでしょか
>あの日の夜(よる)の ささやきを
>ねむの木 ねんねの木 子守歌


(2011/10/26)





昭和48年

>     歌会始御題  子ども
>
>さ庭べに夏むらくさの香りたち星やはらかに子の目におちぬ


さ庭・・・神のお告げを聞く場所、といった意味もあるが、この場合は、庭に接頭辞さをつけて、普段使ってる庭を親愛を込めて言ったのであろう。
〜べ・・・〜の辺り
むらくさ・・・群れて生えている草


夏の宵、暗くなった庭では生い茂る草の香がほのかに立ち、そこで夜空を見上げる子どもの柔らかな目には、まるで星が落ちてきたかのような輝きがある。

美しい歌である。特に下の句は素晴らしい。宮沢賢治の童話の世界を思わせる。

(2011/10/28)




昭和43年


>     歌会始御題   川
>
>赤色土
(テラ・ロッシャ)つづける果ての愛(かな)しもよアマゾンは流れ同胞(はらから)の棲む

テラロッシャ・・・アマゾン高原一帯に広がる火山岩が風化した土
つづける・・・「続く」の已然形 +存続の助動詞「り」の連体形、続いている
かなし・・・せつない、いとおしい、感に堪えない
もよ・・・感嘆、感動の意を表す助詞

ジャングルとアマゾン川が果てしなく続いている。同胞はこの広大な土地のいずこかで農地を切り開きテラロッシャを耕し野菜やコーヒーを作った。目に見えぬ最果ての地までもが愛おしく思えてくる。

人智を越えて広がる大自然と、それに投げかける人間の側の思いとの対比が印象深い。日系移民の人たちへの慰労の気持ちも十分に感じられる。

この歌の上の句の言葉の調子が好きだ。テラロッシャ続ける果てのかなしもよ・・・・、イントネーションの流れが心地よい。また地球上で最も巨大で奥深い大自然に対して、怯むことの無い強さ潔さで思いを投げかける姿勢が好ましい。

(2011/11/17)



平成3年


>     多摩全生園を訪ふ

>
>めしひつつ住む人多きこの園に風運びこよ木の香
(か)花の香

全生園はハンセン病患者の療養所。末梢神経が冒されるため、盲目の患者が多いという。そういう人たちのため、風よ、木や花の香りを運んできてくれ、と歌う。

美智子様は、孤児院など養護施設への訪問時の歌も多い。

(2011/12/29)




昭和47年


>     童話

>                養護施設訪問
>みづからもいまだ幼き面輪
(おもわ)にて童話語りつつ子ら看とる人
>                                 
文化の日兼題

保育士になったばかりの女性だろうか。まだ幼い表情を残したまま、さらに幼く幸薄い子どもを落ち着かせ、寝かせるために童話を語っている情景。人物のある瞬間の表情を描いた、昔の西洋絵画を思わせる。


(2012/3/7)



昭和47年

>     湖

>果(はて)の地の白砂(はくさ)のさ中空の青落ちしがに光る湖(みずうみ)ありき
>                       
アフガニスタン バンデミアール湖

落ちしがに・・・落ちたかのように。「がに」は奈良時代以前の助詞。

どこまでも続く白い砂漠の彼方に、まるで空の色が落ちてきたかのような青い湖が燦めいて見えた。

一瞬の鮮やかな光景を切り取った歌。



昭和47年

>高松塚古墳
>
>
いかならむ皇子(わうじ)や眠りいましけむ闇に星宿(せいしゅく)の図ある石槨(せきくわく)

暗闇に包まれた石槨の中、星座を描いた石の下で、どのような皇子が眠っておられたのだろうか。

高松塚古墳に壁画が発見されてセンセーションを巻き起こした年の歌。東西南北と天井に絵が描かれていた。天井には星座、壁には女性や玄武が描かれたいたわけだが、この歌では星座に焦点があてられている。その星座の下、千年以上の眠りを続けてきた皇子に想いを寄せる。

折口信夫の「死者の書」を思わせる。

>彼の人の眠りは、徐かに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、さらに冷え圧するものの澱んでいるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。
>した した した。耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。ただ凍りつくような暗闇の中で、おのずと睫と睫とが離れて来る。

>そうしてなお深い闇。ぽっちりと目をあいて見回す睫に、まず圧しかかる黒い巌の天井を意識した。ついで氷になった岩牀。両脇に垂れ下がる荒石の壁。したしたしたと岩伝う雫の音。


この小説は、大津皇子を描いたものだが、皇子は謀反の罪で持統天皇に死を給わった。高松塚古墳の被葬者には同じ天武天皇の子どもでも異母兄弟の高市の皇子などの名前が上がっている。

大津皇子は、死の直前、姉で伊勢神宮の斎女の太来皇女に会いに行ったのだが、別れ際に大来皇女が詠んだ歌が忘れがたい。

>わが背子を大和へやるとさ夜ふけて 暁露
(あかときつゆにわがたち濡れし

美智子様の歌にも、この歌の言葉を使ったものがある

>昭和54年
>       明星
>
雲もなく明星の光さやかなるこのあかときの園の静けさ
>                  
天皇陛下御誕辰御兼題

まさに静けさを感じさせる歌。


(2012/3/20)




平成24年(発表は25年正月)


>     復興
>今ひとたび立ちあがりゆく村むらよ失
(う)せたるものの面影の上(へ)


実に素晴らしい。なくなったものはそれはそれとして認めて、その面影を抱きつつ、再び立ち上がれ、と仰ってるのだ。

(勿論これは『瀬音』外)

(2013/1/5)





昭和36年

>      若
>若菜つみし香にそむわが手さし伸べぬ空にあぎとひ吾子
(わこ)はすこやか


あぎとふ・・・幼児が片言を言う、あるいは魚などが口を水面で動かす。
この場合は、何か言いたそうに、空に向かってあごを動かしてる仕草なのだろうと思う。


昭和40年

>      礼宮誕生
>眦
(まなじり)に柔(やわら)かきもの添いて来ぬ乳(ち)(た)らひぬれば深ぶかといねて


乳を十分に飲んで満足そうに寝ている子供の目の辺りには、何か人間らしい柔らかさが出てきている。


昭和43年

>      花吹雪
>双
(もろ)の手を空に開きて花吹雪(ふぶき)とらえむとする子も春に舞う

春の空には、桜の花だけじゃなくて子供も舞っている、という何かユーモラスな仕草を思わせる歌。

いずれも子供のちょっとした仕草や表情に注目して歌にしたもの。子供の歌にはとりわけ良いものが多い。


(2013/5/9)




平成15年

>     歌会始御題  町
>
>ひと時の幸
(さち)分かつがに人びとの佇(たたず)むゆふべ町に花ふる


春の夕べ、花の降る町の安らいだ気分を惜しんで、誰もが立ち去りがたく佇んでる情景。
昔風に言えば、幻燈機で映されたような幻想的な町の一シーン。
今は通りも公園も無機的に感じられて、あまりこういった事は起こらないような、そういう意味でもノスタルジックな幻想的な歌である。大正ロマンとか、竹久夢二をイメージさせる。

個人的には、田舎の夏の夕べを思い出す。
生まれ故郷の村は、中央を川が流れその周囲に水田が広がっていた。
家々は更にその外側の山沿いにあったのだが、夏は日が暮れると、子供や若い人は川に掛かったただ一つの橋の上に集まり涼んでいたものだった。
エアコンも無い時代の夕刻の何でもない一つの情景。しかし忘れがたい情景。

        (これも「瀬音」外)

(2014/4/13)



昭和53年

>    早蕨
>
>
ラーゲルに帰国のしらせ待つ春の早蕨(さわらび)は羊歯(しだ)になりて過ぎしと
>                 長き抑留生活にふれし歌集を読みて


春になると芽生えてくる帰国への淡い希望が、何も起こらぬままに固まっていってしまう様を表したのか。
ワラビは春を過ぎれば、いわゆる羊歯となって硬くざらざらした葉を出す。この歌では時間経過だけでなく、抑留者の心持ちが、「早蕨が羊歯に」という強烈なイメージで表現されていると思う。

この言葉を、美智子様が歌集の作者に投げかけたとは到底思えないので、多分、その歌集の中に使われていたのだろうと思っていたのだが、歌集のタイトルが分からずそのままにしていた。最近、それが、高橋房男著『転生:歌集ラーゲルの中で』(1977刊)という本だと知り、国会図書館で元の歌を確認する事が出来た。
こちらのサイトで書名を知った)

>さわらびは羊歯となりたり先の日の帰国の話早や報せ来よ  (昭和22年作)

こちらはおそらく、時間経過をさして言ってるのだろうと思う。

    *      *     *     *

高橋房男氏は、満鉄などに勤めた後、終戦間際に第148師団に士官として召集され、新京(今の長春市)を死守せよとの命令を受けた。しかし敗戦、捕虜となり、黒河市(黒竜江上流)、バイカル、ノヴォシィビリスク(オビ川河畔)、ウラル地域、そしてマルシャンスク(モルシャンスク、モスクワとヴォルゴグラードの間)のラーゲル(収容所、ラーゲリとも言う)などで過ごし、終戦後3年近く経って帰国した。

その間、700余の歌を詠み、細かい字で薄紙に書いてベルトの中に隠して持ち帰った。歌は主に日記代わりに出来事を記録するためだったという。元々満州地域の歌集の選者などをやっているほどの歌人であった。
その内の幾つか。

>
わが舎弟硫黄島にて玉砕しその学び舎に囚われて兄は
>                 大同学院に九月三日

大同学院は、新京にあった官吏養成学校。満州駐留軍はよく南方地域に送られた。

>まばたきをなす間に灰に化りしと噂に流る広島長崎
>一ミリの億劫分の一により邦崩壊すすさまじきかな

昭和20年の10月頃の歌。シベリアの収容所にまで原爆のニュースは流れていた。

>国の歌熱き祈りに唱いつつ溢れくるものとどめかねつも
昭和21年正月

>丘の上の松の梢に円(まろ)き月露に濡(しめ)れる我を照らせり
>独逸人ビリーが月に唱ひおり故国を恋ふる歌にかあらむ

この頃、夜間監視の当番をやっていた。

>独逸戦に一人息子を死なしめし嫗の家に水乞いにけり
>捕虜我に係りて嘆き起こりしや嫗の眼
(まなこ)うるみたりけり
>人間は悲しみを経て温かき情
(こころ)湧くらし水をいただく

捕虜と戦勝国民との関係ではあったが、人としての交流もあったという。
(「嫗」は元歌では「女+区」。「嫗(おうな)」の略字体だと思う)

>微(かす)かなる夜の春雨ふり居れり諸草の萌えやまずありなり
6月の情景は、日本とそう変わらなかったよう。季節は遅れてはいるが。

>子供らが捕虜に食(しょく)乞う現実はろしや史の中に誌されざらむ
>戦ひに勝ちたる国の児童らが捕虜に飯乞ふきびしさを見つ

捕虜の悲惨さは良く聞くが、一方でこれがロシアの現実であったと。


>八月のラーゲル、日曜など休みにはラーゲルよりの
>外出を見逃さる。魚釣り・時に禁令を
>破り作業にて知り合ひし部落の人を訪問するなど。毎日
>顔合せ居れば・・・人の心は斯くのごときか。
>
>川岸に貝を煮て居るわが行為遠つ代びとにわれと擬らふ
>枝たわめ山の林檎をもぎるとき幼きわが日ふと蘇へる
>さわらびは羊歯となりたり先の日の帰国の話早や報らせ来よ
>朝川に立ち漂えるうす霧の儚
(はかな)き命われら生きをり
>秋づけば夜の川瀬の音冴えて悲しきまでに日本ぞ恋し

ある程度は自由に山野を歩く事も許されたよう。そういう時に羊歯をみたのだろう。

>泣きながら笑まひをつくり走り来て手を振りにけり乙女ワーニャ

22年10月、マルシャンスクへ移動。近場に住んでいた女性だろうか。

>帰国名簿にわが名まじりて呼ばれたり胸高まりて返辞上ずる
11月。それまで何度もあった帰国の誤報が、今度ばかりは本当となりそう。

>勝ちたれど涕(なみだ)をそそぐ人間の邃き情を我は愛すに
ロシアの現地の住民との交流を言っているのだろう。昭和23年1月。
「邃」は「ふかい」と読むのか。

>四月下旬 デモ訓練
>赤旗をまん中にもめる一団に我をまじえてワッショイ・ワッショイ
帰国の為ナホトカについたが、そこにはナホトカ・アクティブというソ連べったりとなった日本兵士の集団がいて、帰国者の選別にも係わっていたらしい。だから、それらしく行動するしかなかった。特に士官将校には厳しかったという。

>帰国再開の報あり、一週間以内に船入港すと4月28日
>乗船は5月4日、雨の中を明優丸に
>危険ひとつ腹に留めおき書き物は昼火の中に投げ入れにけり
>スターリンを讃へしことの大かたは生命を賭けて生き抜かむため
危険ひとつ、というのは、これらの歌をメモした紙片の事。腹のベルトの間に挟んで持ち帰った。

>甲板に雨そそげとも佇ちつくしなほとかの山よ雨ふる山よ
   
万感の思いでロシアの大地と別れる。
(「そそげとも」は、「そそげども」か「そそぐとも」の誤植か)

ちょっと長すぎたかもしれないが、大変興味深かった。モスクワの近くにまで収容所があったとは知らなかったし、現地の住民との個人的な交流もあったという。戦争の事は当事者の、偏らない、洗脳されていない(笑)証言によるのが良い。観念的な物言いなど何の価値もない。

(2014/5/11)



平成4年

>  ことば
>
>言(こと)の葉(は)となりて我よりいでざりしあまたの思ひ今いとほしむ
>                   文化の日御兼題


思ってはいても口に出さなかった多くの思いを振り返り、その時の自分の気持ちを懐かしむ。
それを含めて自分の過去であったのだと。


平成7年

>   道
>
>かの時に我が取らざりし分去(わかさ)れの片への道はいづこ行きけむ
>                   文化の日御兼題    
   

片へ・・・片方の

あの大きな人生の岐路で、私が選ばなかった方の別の道は、私をどこに導いたのだろうか

全くの無責任な個人的な想像だが、もし美智子さんが皇太子妃にならなかったとしたら、歌人になっていたのではないだろうか。上記の「ま白きにごり」のような印象的な歌を多数作られたに違いない。しかし、戦没船員の除幕式のような場には立たなかっただろうから、あくまで歌人の一人に過ぎなかったのではないだろうか。
(2014/7/18)

ちょっと気になったので、「分去れ」という言葉を調べてみたのだが、古語辞典を何冊か見ても無かった。「分(わか)〜」という接頭辞的な用法も、「去れの〜」といった名詞的な使い方も見つからなかった。意味は見当は付くのだが、一体どこから来たのか。
で、ネットで検索したら、軽井沢近辺にある「追分宿」に、「追分の分去れ」という地名があるらしい。中仙道が、越後などに続く北国街道と分岐する地点だという。調べてみるものだ。中仙道には69の宿場街があったのだが、実は以前、その内の「馬籠の宿」などに行った事があるのを思い出した。











上左は馬籠宿(坂道にそって家屋が並ぶ)、右は奈良井宿。
どちらも特に見るものがあるというわけではないが、妙に記憶に残ってるのが不思議。

右はその時買った民芸品風の風車。
持ち帰るのが大変だった(笑)。




風ぐるまを詠んだ皇后様の御歌
昭和62年

>  風ぐるま
>
>三月(さんぐわつ)の風吹き来たり美しく廻れ風ぐるま遠き日のごと

(2014/8/2)




昭和46年

>  栗鼠
>
>くるみ食(は)む小栗鼠(こりす)に似たる仕種(しぐさ)にて愛(いと)しも子等(ら)のひたすらに食(は)

食む・・・食べる、飲む

昭和50年

>  朱
>
>ひたすらに餌(え)を食(は)む鳥の朱(あけ)の嘴(はし)をちこちにしてみ国春めく
>                       
皇后陛下御誕辰御兼題

をちこち・・・あちこち、ここかしこ
朱・・・朱色、赤い色
嘴・・・くちばし

昭和58年

>  桜餅
>
>さくらもちその香りよく包みゐる柔らかき葉も共にはみけり


はむ、という言葉はあまり現代では使わなくなった言葉ではある。「食う」とか、「食べる」とは何かニュアンスが違う。私の個人的な感覚では、「食う」が自分の欲望に従って摂食する、「食べる」は社会的な場で摂食するというニュアンスがあるのに対し、「はむ」は、動物が生存に必要な動作を普通にしている、といった中立的な印象がある。その行為に、欲望や社会的な視線を感じさせない。
桜餅の歌は、実際に食する時の雰囲気が良く出ていて、特に好きな歌の一つ。香りを思い出してしまう。


(2014/8/19)
(




(2015/10/11追記)
昨年、皇后さまの傘寿記念の談話が発表され、その中にこの歌集の歌に関連ある箇所があったのて、引用する。
→ 魚拓
> まだ若い東宮妃であった頃、当時の東宮大夫から、著者が私にも目を通して欲しいと送って来られたという一冊の本を見せられました。長くシベリアに抑留されていた人の歌集で、中でも、帰国への期待をつのらせる中、今年も早蕨(さわらび)が羊歯(しだ)になって春が過ぎていくという一首が特に悲しく、この時以来、抑留者や外地で終戦を迎えた開拓民のこと、その人たちの引き揚げ後も続いた苦労等に、心を向けるようになりました。

>最近新聞で、自らもハバロフスクで抑留生活を送った人が、十余年を費やしてシベリア抑留中の死者の名前、死亡場所等、出来る限り正確な名簿を作り終えて亡くなった記事を読み、心を打たれました。戦争を経験した人や遺族それぞれの上に、長い戦後の日々があったことを改めて思います。

> 第二次大戦では、島々を含む日本本土でも百万に近い人が亡くなりました。又、信じられない数の民間の船が徴用され、六万に及ぶ民間人の船員が、軍人や軍属、物資を運ぶ途上で船を沈められ亡くなっていることを、昭和四十六年に観音崎で行われた慰霊祭で知り、その後陛下とご一緒に何度かその場所を訪ねました。戦後七〇年の来年は、大勢の人たちの戦中戦後に思いを致す年になろうと思います。

>昭和四十二年の初めての訪伯の折、それより約六〇年前、ブラジルのサントス港に着いた日本移民の秩序ある行動と,その後に見えて来た勤勉、正直といった資質が、かの地の人々に、日本人の持つ文化の表れとし、驚きをもって受けとめられていたことを度々耳にしました。当時、遠く海を渡ったこれらの人々への敬意と感謝を覚えるとともに、異国からの移住者を受け入れ、直ちにその資質に着目し、これを評価する文化をすでに有していた大らかなブラジル国民に対しても、深い敬愛の念を抱いたことでした。


(追記終わり)



平成23年

>「はやぶさ」

>
その帰路に己れを焼きし「はやぶさ」の光輝かに明かるかりしと

小惑星「イトカワ」まで60億キロを往復して帰還した小惑星探査機「はやぶさ」を歌ったもの。

8年もの歳月をかけ、はるかな地球まで小惑星の資料を持ち帰るという重大な任務を果たしたあと、光り輝かに散り果てたという、まるで映画のような物語であった。

またこの写真の素晴らしい事。露光時間がどれくらいだったのか知らないが、方向や画角を含めて見事に撮れたものだ。



ところで、私はこの歌を見た時、全く違うものを連想してしまった。宮沢賢治の「よだかの星」である。内容的には全く違うし、関係ないのだが。容姿や声の醜さから他の鳥に嫌われたよだかが、星に向かって飛び、体を燃やして星になるという、まあ逆のような話ではあるのだが。

抜粋
>ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓(う)えて死のう。

>「お日さん、お日さん。どうぞ私をあなたの所へ連れてって下さい。灼(や)けて死んでもかまいません。私のようなみにくいからだでも灼けるときには小さなひかりを出すでしょう。どうか私を連れてって下さい。」

>そして思い切って西のそらのあの美しいオリオンの星の方に、まっすぐに飛びながら叫(さけ)びました。
「お星さん。西の青じろいお星さん。どうか私をあなたのところへ連れてって下さい。灼けて死んでもかまいません。」

>それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐(りん)の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。
すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。
そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
今でもまだ燃えています。


もう一つ、レイ・ブラッドベリの「万華鏡」をも少し連想する。短編ではあるが、非常に印象的な作品。まあ、これはスペースシャトル「コロンビア号」の事故に比すべき作品ではあるが。

(これも「瀬音」外)
(2016/1/15)



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