NHK「漢詩紀行」~江守徹の「読み」(1)
 h22/9/5~h24/4/24修正~9/18修正
  
ここは、NHKの「漢詩紀行」での江守徹氏の読みについてのページです。

  始  め  に  

通常、漢文の読み下しは、堅苦しくまた平板になりがちですが、江守氏の読みは非常に表情豊かで、しかも独創的です。詩の内容に応じて読みの表現を変化させるということは通常あまりしませんが、こういった方向性もあっていいと思います。

江守氏は、詩の内容に応じ、また使われた言葉の意味に即して、表現を多彩に変えています。その際、抑揚(イントネーション)、高低、強弱、速度、声色など、読みのプロとしての技術が駆使されています。その表現は妥当な納得出来るもので、一つ一つの詩に対し、かなりの考察が背後にあるものと思われます。

以下、NHKのソースから音声部分のみを切り取って音声ファイルにし、読み下し文と共に氏の表現について感じたことを書いてみます。音声ファイルについて、著作権上の問題はあるかと思いますが、詩の日本語音声部分だけであること、
資料としての扱いであることで、ご寛恕願います。(このサイトでは、アフィリエイトを含め、商業的な利用は一切しておりません)

また、余計な注釈など付けて気を紛らわせたくないので、一部の詩については、現代語訳(自作)を付けています(*印のもの)。一行ごとの対訳、意味を明確にすること、古語、雅語はな るべく使わず日常語を使う、という方針です。

原語での読みについては、日本人の受容の歴史において、影響はほとんど無かったと思えるので、原文同様考慮していません。平仄を整えるなど作詞の場合はあるわけですが、多くの日本人にとって無縁であったと思いますので。

タイトル横のプレイマーク(右向き三角形)を押せば、読みが聞こえます。MP3形式です。プレーヤーが表示されない時はブラウザの上部に出るActiveXの許可をして下さい。

音声プレーヤーの扱いを変えました(9/13、更に9/18)。何か問題が起きるようでしたら、ご連絡お願いします。
(このページのファイル、文章についてのコピーを禁止します。)    ご意見・ご感想は→掲示板

  目   次  

1.李白 「秋浦の歌 其の十五」       2.白楽天 「長恨歌~第十一段」   
3.高啓 「胡隠君を訪ねる」          4.屈原 「漁父」*     
5.李白 「山中にて幽人と対酌す」      6.杜甫 「岳陽楼に登る」  
7.岑参 「胡茄の歌~願真卿の使いして河隴に赴くを送る」*    
8.杜牧  「清明」*               9.白楽天 「重ねて題す」* 
10.李賀 「蘇小小の墓」*           


Part2
11.李白 「早に白帝城を発す」*       12.王之渙 「涼州の詞」*      3.杜甫 「倦夜」*
14.陸游 「村居して目に触れしを書く」*     15.孟郊 「登科後」      16.陶淵明 「移居 その二」*        
17.李煜 「浪淘沙令」*       18.李白 「月下独酌 其の一」  
19.白楽天 「八月十五日の夜、禁中に独り直し、月に対して元九を憶う」*      20.杜甫 「登高」*

Part3
21.王維 「酒を酌みて裴迪に与う」*      22.白楽天「紫毫の筆」      23.李賀 「楊生の青花紫石硯の歌」* 
24.杜甫 「岳を望む」*      25.李白 「泰山に遊ぶ六首 その一」*     26.王維 「香積寺に過る」*         
27.蘇軾 「念奴嬌~赤壁懐古」*  (赤壁の戦いの実相は?)      
28.韓愈 「桂州に嚴大夫を送る」*


※お断り 原文を参照して全て原字で入力していますが、第2水準の漢字の場合、正しく表示されなかったり、場合によってはその部分が脱落している場合があります。特に、23,25,27番辺りで起こりがちのようです。お気づきの点があればご連絡下さい。


1.李白 「秋浦の歌 其の十五」
      

白髪三千丈、            
愁に縁って箇の以く長し      
知らず、明鏡の裏、         
何れの処にか秋霜を得たる
       

1行目、鏡を見て驚き、うめくように語る様、2行目の自嘲的なつぶやき、3,4行目の後悔をにじませた諦めの情。
特に3行目、昔日を思い起こそうとするように、トーンが上がって行く。ここが良い。そして、4行目では諦めと受容の気持ちで下がっていく。
こういう表情の付け方はそう思いつくものでもないし、思いついても、表現出来る人はあまりいないのでは。
この読みは素晴らしいと思います。

鏡とは、透明な水を喩えて言ったという。
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2.白楽天 「長恨歌~第十一段」      

天に在りては、願わくは比翼の鳥となり、
地に在りては、願わくは連理の枝と成らんと
天長く地久しきも、時有りて尽く
この恨みは綿々として尽くる期なからん


長恨歌のラスト4行ですが、江守氏の読みの狙いが良く分かる詩だと思います。
1行目は段々と上げていくイントネーション、2行目は段々下げて、と内容に従い、どちらも「願わくは」を強めて主人公の思いを強調する。
3行目は、フラットなトーン、最後は聞き取れないほどのディミヌエンドで遠近感を出す。
4行目は若干元に戻して、「綿々として」を強調し、音程的には下げずに期待感を残して終わる。
これも好きな部類です。         上へ


3.高啓 「胡隠君を訪ねる」
     

水を渡り、また水を渡り
花を見、また花を見る
春風江上の路       
覚えず、君が家に至る
  

これは江守氏の真骨頂と言っていいような読みでしょう。音声に言葉の意味を乗せようとする努力の、最良の結果の一つだと思います。
前半2行では、中国南部の水郷地帯の春爛漫の中を行く様をゆったりとしたテンポで表し、3行目ではそういう所を行く作者ののどかで心地良い気分を、そして間を置かず続ける4行目では、「ああ、もう着いたんだ」という驚きと喜びの交じった気分を表す。
とりわけ「覚えず」のイントネーションがポイントでしょう。若干、表現過多だという印象を受け、笑いを誘われる面もありますが、表現するとなるとこうなるでしょう。  上へ


4.屈原 「漁父」
      

屈原既に放たれて
江潭に遊び
行くゆく沢畔に吟ず
顔色憔悴し
形容枯槁せり
漁父見て、之に問うて曰く
「子は三閭大夫にあらずや、
何の故に斯に至れる」
屈原曰く
「挙世皆濁り、
我独り清めり
衆人皆酔い、
我独り醒めたり
是を持って放たれたり」



「我是を聞く、                
  よく言うではないか、 
新たに沐するものは必ず冠を弾き、      
髪を洗った者は、冠をかぶる前に埃をはらい、
新たに浴するものは必ず衣を振るうと     
湯浴みした者は、着る前に衣をふるうと
安んぞ能く身の察察たるをもって、       
どうしてこのように潔白な身をしていながら、
物の汶汶たる者を受けんや           
汚らしいものを受け入れられようか
寧ろ湘流に赴いて、               
たとえ湘水の流れに入って、
江魚の腹中に葬らるるも、           
川魚に食われて死んでしまうとしても、
安んぞ能く皓皓の白きを以て、         
どうしてこれほど清潔な身をしていながら、
世俗の塵埃を蒙らんや」
             世俗の塵埃をかぶらないといけないのか

セリフ部分が役者らしさが出て、特徴的です。江守氏の読みの中でも、かなり感情的な高揚の強い読みです。ナレーションに当たる部分、漁父、屈原、と3様の声色を使い分けるのは、もはや俳優として抑えられない本能でしょう。「挙世皆濁り~」、「安んぞ能く皓々の白きを以て~」の辺りは、それにしても思い入れが強いように感じます。

私個人的には、あの国民を騙しにかかった民主党のマニフェスト選挙などを思い起こしてしまいますが>衆人皆酔い~
まあ、私だけが醒めてたわけではないでしょうが。
そう言えば、当時の女子高生へのアンケートで、民主党の政策は人気取りの為のものだから上手く行くわけがない、と答えた生徒が60%にも上ったとの調査がありましたが、どうして女子高生の側が見抜いていて、大人の側がああも見事に引っかかったのか、不思議なこともあるものです。→ソース 

これが録音されたのは90年代半ば、何かの個人的な思い入れなのか、あくまで俳優としての領域のものなのか。上へ



5.李白 「山中にて幽人と対酌す」
     

両人対酌して山花開く
一杯一杯また一杯
我酔うて眠らんと欲す、卿且く去れ
明朝意有らば琴を抱いて来たれ


江守氏らしい読みだと思います。前半はゆっくりしたテンポで、酒を楽しんでいる様を表しています。
後半はややトーンを高くして、会話風のイントネーションに。とりわけ「眠らんと欲す」の読みが良い。
「琴」のアクセントにやや違和感はありますが、こんなものか。
2行目の読みが、役者らしい間の取り方といい、秀逸です。
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6.杜甫 「岳陽楼に登る」     

昔聞く洞庭の水
今登る岳陽楼
呉楚東南に斥け
乾坤日夜浮かぶ
親朋一字無く
老病孤舟有り
戎馬関山の北
軒に憑れば涕泗流る

前半は自然の変わらぬ雄大な様が、言葉としては描かれてるわけですが、江守氏の読みは必ずしもその内容に合わせてはいず、むしろ内に向かうような語りとなっています。で、それはこの詩の場合正しい。

杜甫は名所に来たわけですが、その光景に心を奪われているわけではなく、気持ちは当時の戦火に荒んだ社会と、自分の置かれた孤独な状況にあるからです。激変する社会とそれに翻弄される個人にとって、常に変わらぬ自然は憧憬の対象ではあるけれど、あくまで背景でしかない。その雰囲気の良く出た読みだと思います。

後半はさらにぐっとトーンを落として、独白調が強くなります。5行目の沈んだ読みはさすがです。7行目では、戦火の中にある生まれ故郷をはるかに望むようにトーンが上がりますが、8行目では現状の気持ちに合わせてまた沈みます。
これも良い読みだと思います。
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7.岑参 「胡茄の歌~願真卿の使いして河隴に赴くを送る」 
  

君聞かずや、胡茄の声最も悲しきを      君は聞いたことがあるだろうか、胡茄の悲しげな響きを
紫髯緑眼の胡人吹く               赤い髭、青い眼の胡人が吹くのだ
これを吹いて一曲なお未だ終わらざるに、   これを吹けば一曲も終わらないうちに、
秋殺す、楼蘭征戌の児              楼蘭に出征してきている兵士たちを、深い愁いに沈めるという

涼秋八月蕭関の道                肌寒い秋八月、蕭関へと君は往く、
北風吹断す、天山の草              北風が激しく吹き散らす天山山麓の草を踏んで
崑崙山南月斜めならんと欲し、         崑崙山の南に月が落ちようとする夜更けに、
胡人月に向いて胡茄を吹く           胡人が月に向かって胡茄を吹くのだ

胡茄の怨みまさに君を送らんとす        その悲しい響きに包まれる思いで、私は君を送ろうとしている、
秦山はるかに望む隴山の雲           ここ長安から赴任先の隴山の雲をはるかに見やりながら
辺城夜夜愁夢多し                 辺境の街では夜ごと寂しい夢をみることだろう
月に向かいて、胡茄誰か聞くを喜ばん     ふと目覚めて月を見上げるとき、胡茄の音が流れて来るのは辛いことだろう

最初の4行では、友人が赴く西域にあるという胡茄という笛について語り、次の4行は、実際に友人が行くであろう行程を思いやり、ラスト4行で今の自分の思いを語る。この解釈は番組のものや一般的なものと若干違いがありますが(特に1行目と最終行)、私はこう解釈したい。

第1連では、遙か西域を思うようなやや高いトーンで、第2連では、辛い道のりを思いやる気持ちを表す低いトーンから、視線の移動に応じて高潮して行くところが良い。
全体的には比較的抑制した読みですが、詩の内容に合っていて悪くないと思います。      
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8.杜牧  「清明」
    

清明の時節雨紛々               清明の頃あい、春雨が煙るように降っている
路上の行人魂を断たんと欲す        旅の途上雨に降られ、疲れ切って気持ちも萎えそうな私だ
借問す、酒家はいずれの処にかある    そこで聞いてみた、酒屋はないのかと
牧童はるかに指さす、杏花の村       すると牛を牽いた子供が指さしたのだ、遠く杏の花に包まれた村を

杜牧の詩は、どことなく官能的で、それでいて開放的、言わんとするところ(詩心というのか)が明快です。この詩もそういった特徴がありますが、実はこの詩は杜牧のだという証拠はないらしい。杜牧作として伝えられているとのこと。

清明とは四月上旬の芽が出、花咲き乱れる頃。日本人が抱く、中国の原風景を詠んだような詩。4行目の遙か遠くの「杏花の村」が、ちょっとした桃源郷のようで、印象的です。あそこまで行けば、身も心も癒されるのだ、といった陶然とした気持ちが伺えます

江守氏は、最後の言葉に思いを乗せています。      上へ



9.白楽天 「重ねて題す」
     

日高く睡り足りて猶起くるに懶し      よく寝てもう日も高くなったが、起きるのも億劫だ、
小閣に褥を重ねて寒さをおそれず    日の当たる二階、布団を重ねて寒くはないし
遺愛寺の鐘は枕を欹てて聞き       遺愛寺の鐘は、枕を傾けて聞くだけ、
香炉峰の雪は簾を撥げて見る       香炉峰の雪も、簾をあげて覗くだけだ
匡廬は便ちこれ名を逃るるの地      この匡廬に来て、出世競争から身を引いたし、
司馬は尚老いを送るの官たり        司馬の官は老人の為の閑職で気楽なものだ
心泰く身寧きはこれ帰する所        このような安楽こそが、最後にたどり着くべき境地だったのだ
故郷何ぞ独り長安にのみあらんや     安住の地は長安だけだと思いこむことなどないのだ

4行目は枕草子で有名。高校の時は意味が良く分からなかったですが。知ったかぶりの清少納言とか思ってました。3行目は漢文の時間に先生に当てられて意味を聞かれたけれど、上手く答えられなかったという思い出が鮮烈(笑)。近くに好きな女の子が座っていて(^_^;、何となく笑ってたのが忘れられません。

だけど良い先生で、杜牧の「江南春絶句」や、南北朝時代の「勅勒の歌」を読むたびに、その時のその先生の説明している姿が思い出されます。
前者は、「南朝四百八十寺」の音の説明を、後者は最終行の「風吹き草たれて牛羊現る」の意味を説明しているシーンなんですが。

江守氏の読みは、これも特に特徴はありませんが、詩の内容に合わせたゆっくりしたテンポの読みです。
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10.李賀 「蘇小小の墓」      

幽蘭の露、        墓地の奥、蘭の葉に結ぶ露は、
啼眼の如し        涙に濡れたあなたの眼のようだ
物の同心を結ぶ無し   墓前には二人の愛の印は何も無く、
煙花は剪るに堪えず   花を折って手向けようにも、夕もやの中、相応しいものは見あたらない

草は茵の如く、     草は敷物のようにも見え、
松は蓋の如し      松は幌のよう
風を裳と為し       風はあなたの裳裾の揺れ、
水を珮と為す      水音は珮玉の響き
油壁の車、        あなたは飾った馬車でやって来ては、
夕べに相待つ      亡くなってからもずっと、夕に恋人を待っていた

翠燭冷ややかに     だが、冷たく光っていた碧い鬼火も、
光彩を労す        光彩を弱めていき、
西陵の下、        今は西陵橋の下、
風、雨を吹く        風が雨を吹き散らすだけ

鬼才と言われる李賀の幻想的な詩ですが、各種の読み下しがあり、その上原文自体にも異同があって、当然解釈にも各種あるようです。例えば、「夕べに相い待つ」→「久しく相い待つ」とか。一応番組での読み下しを書きましたが、解釈はそれとは多分違っています。意味が拡散しないように、限定的にした訳です。

数百年前の悲劇の女性、恋人を待ち続けて亡くなった人、蘇小小に思いを巡らせ、その墓の前で読んだ詩。こういった詩が1千年以上前に評価されたというのも、大変なことだと思います。

江守氏の読みは、穏やかな、想いのこもったものです。     

※ 最終行は、平仄の関係で、「風雨晦」が正しいらしい。その場合、

  風雨、晦し       風雨で、暗がりだけ

となる。
10行目、「夕べに相待つ」と「久しく相待つ」とでは、情景的には前者、物語的には後者。下の鬼火との関係では後者がやや良か。
 
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